北朝鮮による拉致問題

2021年9月 1日 (水)

拉致問題解決に向けて

北朝鮮による拉致被害者・横田めぐみさんの父・横田滋さんが永眠されて1年が経ち、あらためて拉致問題解決を求める気運が高まっています。

新潟日報 拉致問題(特設サイト)

今回、意見書(案)を提出 したことを機に、過去の一般質問(令和2年3月)の質問と答弁を振り返ってみました。

(以下は柏崎市議会会議録より抜粋)

近藤

 現在、またもやミサイル発射により、世界を騒がせている、北朝鮮による拉致は、言わずと知れた重大な国家犯罪、人権侵害であり、柏崎市にとっても深い関わりがある、大きな事件です。
 しかし、平成14年(2002年)に蓮池 薫さんほか、5名の拉致被害者が帰国してから今年で18年、いまだ解決に至っていません。
 今年2月、拉致被害者の1人、有本恵子さんの母、嘉代子さんが94歳で亡くなり、未帰国の被害者家族の親世代は、有本明弘さん91歳、横田 滋さん87歳、横田早紀江さん84歳の3人だけになりました。そのうち横田 滋さんは入院中と報じられています。
 拉致被害者の御家族が高齢化していく中、拉致問題そのものが、風化していくことが懸念されています。風化させないためには、地道な啓発を続けることが重要だと考えます。

 さて、柏崎市内における拉致問題の啓発活動としては、拉致被害者の蓮池 薫さんが、学生や成人を対象に、特別授業や講演を行っていらっしゃいます。
 昨年の夏には、曽我ひとみさんの講演会が開催され、一緒に拉致されたお母さんへの思い、短いながらも励まし合って暮らした横田めぐみさんとの日々、不自由な中にも人の心の温かさに触れた、北朝鮮での生活などについて語られました。
 私も参加し、拉致という非人道的な国家犯罪が、いまだ解決に至らないことを悔しく思うとともに、自由が保障された平和な日本で暮らせることのありがたさを、実感する機会にもなりました。

 拉致問題の啓発媒体としては、ドキュメンタリーアニメ「めぐみ」のDVDがありますが、平成30年(2018年)4月に公表された、市長への手紙によれば、平成29(2017)年度中に活用した学校は、中学校1校のみだったそうです。
 これを受けて、「現在、各学校で平成30(2018)年度の計画を策定している段階です。改めて、「めぐみ」を活用した授業の取組を支持するほか、6月に行う転入、新採用教職員人権教育、同和教育研修会において、「めぐみ」を視聴し、具体的な活用方法を検討する計画を進めています」と回答しています。

 櫻井市長が佐渡市、小浜市の市長とともに、拉致被害者関係市連絡会として、拉致問題解決に向けて御尽力いただいていることは承知していますが、私たち柏崎市民も、もし、自分自身、あるいは、自分の家族や大切な人が拉致被害者だったらという気持ち、当事者意識を持って、拉致問題解決を求めていくことが大切だと思います。
 また、日本政府は、拉致問題解決のために、国際社会の理解と協力を求めていますが、私たち日本人も、奪われた仲間を取り戻したいとの意思を発信するとともに、国際社会の一員として、世界の人権問題に目を向けることも必要ではないでしょうか。

 そこで質問ですが、これまで柏崎市が行ってきた拉致問題啓発活動が、児童・生徒や、市民の当事者意識の醸成や行動の変容、世界の人権問題に対する意識の高揚につながっているか、また、「めぐみ」DVDの現在の活用状況について、併せてお聞かせください。

市長
近藤由香里議員の拉致問題解決に向けてという御質問にお答え申し上げます。
 DVD「めぐみ」に関しましては、後ほど、教育長から御答弁申し上げます。

 まず、本市の拉致問題啓発事業による意識と行動の変容、また、世界の人権問題に対する意識の高揚について、お答えを申し上げます。
 まず、今ほど、議員から、拉致被害者の柏崎市で言えば、蓮池 薫さん、祐木子さん、お二方が戻ってこられてから18年、20年近くたったというお話でした。私自身は、そのときは、柏崎地域国際化協会の事務局長としてお受けする立場、そして、ブルーリボン、今はバッジになっていますけども、文字どおり、リボンを切って、ブルーリボンを作って、皆様につけていただいて、そしてまた、牛乳パックの募金箱を作って、そして、皆様から募金活動をお願いした。
 また、その年の12月31日には、市内の番神堂で、NHKの「ゆく年くる年」が行われたわけですけど、そこにおいても、当事者等も含めて、募金活動をさせていただいたというところでございます。
 もう早くも20年もたったのか。しかし、問題は、いまだ全体問題としての解決をしていない。戻ってこられていない日本人もおられるというのは、非常に遺憾であります。新潟県としても、柏崎市としても、非常に強い、そういった遺憾の思いを持ち続けているところでございます。

 柏崎市では、拉致問題啓発事業として、拉致問題に関するパネル展の開催、拉致問題啓発週間におけるポスター掲示、蓮池 薫さんによる中学生への講演会を実施して啓発を行っております。
 中学生への講演会は、保護者や地域の方にもお聞きいただけるよう、御案内をしておるところでございます。蓮池 薫さんのお話からは、拉致の現実と、北朝鮮での生活や北朝鮮国民の生活実態を知ることだけではなく、日本では当たり前にあるが、北朝鮮にはない自由の保障と、夢を持つことのできる環境の違いを学んでおるところでございます。

 拉致被害者のおられる3市で構成をしております、拉致被害者関係市連絡会では、拉致問題の解決を求めた要望書を、これまでは拉致問題担当大臣に提出しておりましたが、さらに一歩進めるために、昨年度は、私から要望書を安倍総理大臣に直接手渡しをさせていただいたところでございます。
 また、今年度は、拉致問題担当大臣でいらっしゃいます菅官房長官に直接お目にかかり、菅官房長官にも直接、私から要望書をお渡ししたところでございます。
 そしてまた、北朝鮮金正恩国務委員長へ拉致被害者の即時、全員の帰国を求めたメッセージを私どもから発信をしたところでございます。
 加えて、昨年は、曽我ひとみさんから、柏崎市にお越しいただき、240名を超える市民の皆様に対し、御講演をいただきました。

 いずれの事業も、新聞やテレビなどのメディアに取り上げていただき、市内外に拉致問題の解決を願う、私ども柏崎市の姿勢を示すことができたものと理解しております。これらの取組や報道を市民の皆様が目にする、耳にすることは、拉致問題への関心や、被害者の帰国を願う啓発効果が高いものと考えており、引き続き、拉致問題の解決に向けて、意識を共有できる取組と情報発信を行ってまいります。

 意識と行動の変容という点では、今年度、小学校2校で蓮池 薫さんから講演を行っていただきました。これは、中学校での取組の影響を受けて、柏崎市だからこそ学ぶ必要があると、学校が自主的に行ったものでございます。さらに、蓮池さんのお話から、自分たちでできることを考えた児童が、横田 滋さん、早紀江さん御夫妻及び、安倍内閣総理大臣にメッセージを送るという取組までつながったところでございます。
 このような体験をした児童や先生方は、今後、より広い視野で、拉致問題や世界の人権問題に関心を持ち続けてもらえるものと期待をしているところでございます。

教育長

続いて、拉致問題に関する学校での取組について、お答えします。
 令和元(2019)年度に、拉致問題を理解する取組の一つとして、アニメ「めぐみ」を視聴した小学校は3校、中学校は6校でした。まだまだ少ないなというふうな印象を持っております。このアニメは、昭和52年(1977年)11月に、新潟市で下校途中の中学1年生、横田めぐみさん、当時13歳が北朝鮮に拉致された事件を、めぐみさんと同じ年頃の児童・生徒に、大変分かりやすく伝える教材だと認識しております。子供たちは、真剣なまなざしでアニメを視聴し、拉致された横田めぐみさんに思いを寄せ、自分自身のこととして捉えている様子がうかがえると、学校関係者からの高い評価も得ています。今後も、より多くの学校で視聴する機会を設定してまいりたいというふうに考えております。

 また、今ほど、市長からも答弁がございましたとおり、平成30(2018)年度から、各学校で蓮池 薫さんの講演会を実施しており、講演会の事前学習として、アニメ「めぐみ」を視聴するなどして、講演に対する児童・生徒の理解がより深まるよう、取り組んでいるところでございます。
 このほかの拉致問題に関する取組としては、政府拉致問題対策本部発行のパンフレット、あるいは、蓮池 薫さんの講演会の資料、拉致に関する新聞記事などを教材に、授業の中で北朝鮮の実態や拉致被害者のことを話し合うなどしております。令和元(2019)年度、小学校8校、中学校10校は、こういうふうに取り組んでいるというふうに手元の資料はございます。

 また、教職員の研修として、毎年6月に、新任・転入職員を対象とした人権教育、同和教育研修会を開催し、アニメ「めぐみ」の上映や、指導主事による拉致問題に関する講演などにより、教職員の理解を深める機会を設けております。あわせて、この研修会では、拉致問題に関する授業の中で、北朝鮮の国そのものや国民への批判、ヘイトスピーチなどにつながらないように配慮することの重要性も指導しております。
 今後も、全ての児童・生徒と教職員が拉致問題など、国内外の人権問題に関心を持ち、その意識をさらに高める取組を進めるとともに、国際感覚を育み、世界に通じる人材の育成に努めてまいりたいと考えております。

近藤

 今ほどの御答弁から、柏崎市における拉致問題の啓発活動が、確実に児童・生徒や市民の皆さんの意識と行動に反映されていることが分かり、ほっとしました。まさしく、柏崎市だからこそできる取組だと思います。
 繰り返しになりますが、拉致問題解決を後押しするのは、非人道的な国家犯罪、人権侵害を許さない、仲間を見捨てないという、私たち一人一人の強い意思、つまりは民意だと思います。
 グローバル社会においては、そんな日本人、柏崎市民の姿を、世界は見ています。北朝鮮の幹部であっても見ているのではないでしょうか。
 私自身も柏崎市民として、また、政治に携わる者として、拉致問題解決に向けて、働きかけていきたいと思います。

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この質問を行ってから数か月後に横田滋さんは永眠されました。もはや一刻の猶予もありません。

柏崎市議会では令和2年11月27日にも同趣旨の意見書を提出しています。

委員会発案第10号 北朝鮮による拉致問題の早期解決を求める意見書(案)

ですが国内外の政治情勢は時々刻々と変わっており、新潟県での拉致問題解決を求める気運がさらに醸成されたことも受け、いま提出することが重要と考えます。

「日本人は同朋を決して見捨てない。絶対に奪還をあきらめない。」という姿勢を地方議会からも示し、解決に向けての前進につなげたいと強く願っています。

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2021年8月31日 (火)

北朝鮮による拉致問題の早期解決を求める意見書(案)

8月27日、下記の意見書(案)を議会事務局に提出しました。

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北朝鮮による拉致問題の早期解決を求める意見書(案)

 北朝鮮による拉致問題については、政府認定の拉致被害者17名のうち、平成14年10月に帰国された5名を除く12名が安否不明であり、このほか、特定失踪者、拉致の可能性を排除できない事案に関わる方々が多数おられる。

 新潟県では、昭和52年11月に新潟市で当時中学1年生だった横田めぐみさんが、昭和53年7月に柏崎市で蓮池薫さん、蓮池祐木子さんが、同年8月に佐渡市で曽我ひとみさん、曽我ミヨシさんの5名が北朝鮮に拉致された。横田めぐみさんと曽我ミヨシさんは、いまだに帰国を果たせていない。さらに、県内には特定失踪者が6名おられ、現在も安否が分からないままである。

 平成26年5月の日朝政府間協議において、北朝鮮政府は特別調査委員会を設置し、日本人拉致被害者等の全面調査を約束したにもかかわらず、一方的な調査の全面中止と同委員会の解体を発表した。

 拉致問題の解決に向けた進展が見られない中、既に長い歳月が経過している。拉致被害者御自身やその御家族の高齢化が進み、令和2年6月には、北朝鮮による拉致被害者家族連絡会を牽引してこられた横田めぐみさんの父、滋さんが、めぐみさんとの再会を果たせないまま87歳で他界された。拉致被害者の親世代は、85歳の横田早紀江さん、92歳の有本明弘さんのみとなり、もはや一刻の猶予も許されない。

 拉致被害者及び特定失踪者御家族の痛切な思いを共有し、今後とも拉致問題を「最優先、最重要課題」と位置付け、国際社会と連携を強化し、国を挙げて下記事項を早急に実現されるよう、強く要望する。

    記

北朝鮮による拉致被害者及び特定失踪者全員の早期帰国及び真相究明に向け、国際情勢に鑑みて、時機を逸することなく、国を挙げて全力で取り組むこと。

以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。

令和3年(2021年)9月 日

柏崎市議会

理由
国会及び政府に対して、北朝鮮による日本人拉致問題の早期解決の必要性を訴え、拉致被害者及び特定失踪者全員の即時帰国を実現するため

*****

これは一言でいえば「議会としてこの意見書(案)を提出してほしい」というお願いです。

今後、全会派で構成される議会運営委員会で取扱いについてはかり、文言修正等を経て全会一致となれば、議会運営委員会としての発案になります。

もし応じられない会派があり、全会一致とならなければ議員発案となります。

拉致問題については柏崎市も加入する拉致被害者関係市連絡会が、先日アメリカ大使館にて要望活動を行いました。

拉致被害者関係市連絡会からアメリカ合衆国バイデン大統領に宛てて拉致問題解決に向けたメッセージを発出しました(8月25日)

また北朝鮮による拉致問題に関する新潟県市町村長の会が設立され、県を挙げてこの問題に取り組むことを表明しています。

新潟日報2021.8.26「拉致問題解決へ結束 県内市町村長による会が設立」

拉致被害者ご本人はもちろんですが、お子さんに会えずに亡くなられたご家族の皆さんの無念さを思うと、やりきれません。

せめて横田早紀江さん、有本明弘さんのお二人には、なんとしてもお子さんとの再会を果たしていただきたい!との願いを込めて、意見書(案)を提出しました。

柏崎市議会の意思として、全会一致になるよう願います。

2020年11月22日 (日)

北朝鮮を取り巻く情勢と拉致問題解決への道

11月19日、北朝鮮の拉致被害者であった蓮池薫氏の講演会に参加しました。(主催:柏崎地域国際化協会)

以下はその内容メモです。

201119

「北朝鮮を取り巻く情勢と拉致問題解決への道」

1.北朝鮮の現状
北朝鮮は三重苦を背負い、厳しい状況にある。

【三重苦その1:度重なる水害】

北朝鮮では治水対策がなされていない。全国的に水害が発生。
河川のすぐ近くに集合住宅が建設され、堤防がないため河川氾濫により洪水被害を受ける。
メディアには緊急復旧した地域だけを映すが、実際には「地元まかせ」のため復旧が進んでいない。
農作物も被害を受け、稲穂はやせ細り、まともな米が収穫できない。その結果、食糧難に。
住宅建設や修繕は機材を使わず人力で行うため、家屋は見た目だけ。
集合住宅の付近には電線・電柱がない。つまり電気が使えないライフラインのない住宅が並ぶ。
金正恩委員長は見栄を張っているが、実質的に洪水から国民を守り生活を改善する様子がまったく見えない。

【三重苦その2:新型コロナウイルス感染症】

北朝鮮では中国に行き来する人が多い(密輸、親戚訪問など)。
中国との国境線から1~2km以内の緩衝地帯に軍隊を派遣。
事前通告なしに人も獣に射殺すると布告。
=中国との国境を徹底的に封鎖
少し前に韓国公務員が北朝鮮訪問し射殺された。
すべては新型コロナウイルスを恐れての行為。

●具体的な新型コロナウイルス対策

発熱者は風邪だとしても20日間強制隔離し、近隣の16世帯をまるごと封鎖。
動けないよう24時間監視する。
経済活動は二の次、三の次。
20日間の隔離中、食料としてトウモロコシをひとり10㎏配給。
当然それだけでは足りず、隔離中に痩せこけてしまう。

PCR検査はピョンヤン以外は行われない。
疑わしきは「症状疑惑者」として監視する。
経済活動を封じる。

10/22~29の症状疑惑者 完全隔離174名
累積では
隔離総数 32182人
PCR検査 12072人 陽性者0人としている。

【三重苦その3:経済活動の低迷】

コロナ封鎖が住民を直撃。
国内に400~500ある「市場」では、13~16歳のコッチェビ(物乞い)が大勢いる。
失業者も多く、仕事がないため農場の肥料盗難が相次ぐ。
肥料は貨車に直接積んで運ぶ。泥棒は隙を見てそれを盗み市場で売る(仲買人→農家へ)
それもできない人は芋とビニール袋を持って山に行き、ビニール袋でテントを張り、芋を食べながら生き延びる。
売春も増えている。
労働者39世帯/69世帯 極貧状態。
孤児院を大量につくったが食べ物がなく子ども達は逃亡。

国家統制のため労働者は全員国営企業で働かせるが、コロナ禍により7割に落ちた。
給料もらえない人が66%。ただ職場に行くだけ。

金正恩委員長も失敗を認めざるを得なくなり、8月に「言い訳」
→来年1月に第8回党大会を行い、新しい戦略で国の経済を立て直すと宣言。
軍事パレードを前に感極まって泣き出す。
「努力と真心足りず生活苦しく申し訳ない。それにも関わらず私を信じてくれてありがたい」
今後、第8回党大会で方針をつくり成果を上げると宣言。

来年1月の党大会に発表される5か年計画次第で、拉致問題も大きく状況が変わる。
5か年計画に日本の存在感を刷り込めるかどうかがポイント。

以上の現状を踏まえ、政府には一環して「今」がチャンスだと伝えてきた。
拉致問題解決のためのメッセージを送るべき。
日本を北朝鮮によって重要な国として位置付ければ拉致問題解決の道は開かれる。

北朝鮮は三重苦による厳しい状況の中で、色々な国に頼らざるを得ない。
日本がそこに関われるかどうかが鍵となる。

 

2、拉致問題はいかにして起きたか。

1970年代~日本を含めて拉致開始。
金正日委員長による党実験。秘密工作部署を牛耳る(拉致組織も含む)。
日本からは政府認定17人を拉致。
秘密工作であり北朝鮮は「ばれるはずがない」と思っていた。
なぜ暴露されたか?拉致に直接関与された工作員および協力者が石川県で逮捕された。
辛光洙(シンガンス)=地村さん拉致実行犯。
よど号事件の女性も関与していることが判明。

1987年、大韓航空機爆破事件の実行犯・金賢姫の教育係が拉致された日本人であったことも判明。
(→田口八重子さん)
徐々に北朝鮮による拉致が明らかに。

1997年、日本の出版物に北朝鮮関与を疑う内容が掲載された(北朝鮮で読んだ)
ジャーナリストの石高健次氏による記事。
「北朝鮮の工作員により日本の幼い少女(双子のひとり)が拉致された」=横田めぐみさん(弟が双子)。
新潟県警が過去に13歳の少女が行方不明になった事件との結びつきに気付く。
それまでも拉致の疑いはあった。実名を出して動かそうということになり、横田さんご夫妻を中心に家族会(拉致被害者家族連絡会)が結成される。
北朝鮮は過剰に反応。福井県小浜市で開かれた小さな集会を北朝鮮労働新聞で大々的に報道。「拉致=でっちあげ」
北朝鮮の人々は記事を我々拉致被害者の目に触れさせたくなかった。新聞記事のことを隠そうとしていた。
この様子から敏感に反応していると感じた。

2002年、小泉総理が平壌(ピョンヤン)訪問
水面下での交渉で日本側から拉致被害者13名リストが渡された。
北は知らないと突っぱねているが、だんだん「調査する」に変わった。
小泉訪朝で拉致を認める。
背景には経済的困窮により日本から資金を手に入れたいとの狙いがあった。
韓国は植民地支配の補償金をもらったが、北朝鮮はもらっていない。同じように日本から補償金1兆円をもらおうとしていた。
保証金は国交正常化が条件。日本の条件が「拉致問題の解決」。
しかし北の回答は13人に対して4人生存、残りは死亡。
日本側は死亡だけでは受け入れられないと表明したが、私もこれは受け入れられないと思った。
横田めぐみさんが私達もあわせて3家族一緒に暮らしていた時期を「自殺した時期」として発表。

増元るみ子さん、市川修一さんも拉致された後に結婚したが、どちらも亡くなり、土葬されたが墓は洪水で流されたと報告。
しかし死亡したとされる時期、やはり一緒に暮らしていた。

報告では8人中6人は遺骨がなく、洪水で流されたとされたが、北朝鮮の墓は山の尾根=いちばん高いところにつくる。
私も墓を掘らされたことあるので、洪水で流されるなど考えられない。

その後、死亡の証拠として提出された遺骨は火葬されたものだった。
DNA鑑定では土葬されたものなら精度高い=DNA鑑定の精度を下げるための加工。

2004年、北朝鮮は突然、横田めぐみさんの遺骨が存在し、夫が自宅で保管していたと発表。
めぐみさんの夫は韓国の拉致被害者で一緒に暮らしたもある。
めぐみさんは1993~1994年の間に亡くなり土葬されたが、夫が妻の遺骨を手元に置くためにそれを掘り起こして火葬したと。
それはすべて嘘。そもそも北朝鮮に火葬施設はない。
夫もすぐに再婚しているので、自宅に遺骨を隠していたというのは嘘・つくり話。
DNA鑑定は、日本では火葬したものでも可能。
私も遺骨が出された経緯が作り話だと証言できる。家族が信じられないのは当然。

●なぜ拉致問題が動かなかったのか。

平壌宣言3原則は「核・ミサイル・拉致」解決すれば過去の清算を行うとの内容。
当時はアメリカとの95年枠組み合意が生きていた。
拉致問題解決さえうまく進めば国交正常化がうまく進んだが、北朝鮮が真実を隠し破綻。

その後、2006年~北朝鮮は核実験を始めた。現在までに6回行う。
ミサイルも数えきれないほど打ち出す。

拉致問題さえ解決すれば1兆円渡せるのかといえば「無理」
アメリカと北朝鮮の関係性が進まない限り、日本とだけ国交正常化できない。
米朝の動きを見守るのが日本の立ち位置。

私はトランプ大統領との会談に期待していた。
米朝非核化は実現すれば次は拉致問題に進める。
うまく交渉してほしいと願っていたが、昨年、米朝協議は破綻した。大きく失望している。

バイデン大統領になればどうなる?はっきり言って期待できない。
トランプの対・北朝鮮戦略ととバイデンはまったく違う。
バイデンは周りから固めるボトムアップタイプなので、95年枠組み合意の原則を守り、事態は1~2年動かないのが見えている。

日本はその間、米朝の動きを見守るしかないのか?とんでもない。
米朝の動きだけを見ていては、横田早紀江さん、有本さんの存命中に解決できない。

核、ミサイルを置いておき、その前に何とかできないか?
北との直接対話は今、何ができるか。拉致被害者を返してもらうために、交渉により解決の道を開くべき。

11月15日の新潟県民集会で、加藤官房長官が「現在、北朝鮮と直接交渉している」と演説。
なんとか突破口が開かれることを期待。
アメリカを通して拉致啓発の意識付けは可能だが 何とかするのは我々日本。
さらにもうひとつ、中国の力を利用すべき。
中国は日本に秋波を送っている。
これまでのように日本はアメリカ一辺倒でやっていけるのか?
北朝鮮は95%中国貿易依存、加えて密輸も。
日本は中国を利用しない手はない。

3、拉致されてからの日々

24年間の拉致生活を振り返る。
拉致の実行犯は北朝鮮の調査部=スパイ活動の中心組織。
党中央の党機関部署であり、金正日が直接牛耳っていた。

拉致の目的はスパイ活動に利用する為。
世界から若者をつれてきてスパイとして教育。
アメリカにはヨーロッパ系、アジアは日本人。

外国人スパイ利用の背景。
それまで北朝鮮の若い人間に対し、強制的にスパイ教育を行ってきた。(金正日政治軍事大学で特殊訓練)
品定めし、選抜して工作員を養成したものの、国内教育だけではうまくいかなかった。
整形しても言語等の問題で結局は失敗。
「だったら外国人を連れてきて教育すればいい。脅し、すかし、なだめれば言うことを聞く。結婚させて家族や子供を人質にとればいい。」
過去のゾルゲ事件などを通してスパイの役割に期待。

1978年6~8月 世界各国に調査部工作員が派遣された。
日本には時期をずらして潜入。
主導した工作員は全員違う。
たとえば福井の地村さんはシン・ガンスだが、柏崎の工作員はチェ・スンツル他。

1978年、ぎおん祭り花火大会の前後に戦闘員(作戦部に属する。人間サイボーグのように屈強な若者達。)が祭りの混乱に乗じて上陸。
船は日本の漁船そっくりに仕立てていた。
野宿や民宿をしながら潜伏。夕方になると中央海岸に行き、若い人達を物色。
7月末は夕方に人が多く出ている。人の目が多い時には実行できない。

拉致されたその日、家内(祐木子さん)とは喫茶店で待ち合わせをしていた。
前の日に電話で約束したので、誰もデートすることは知らなかったし、海に行くことも知らなかったはず。

歩いて市営プールと野球場の間、通称「アベック道路」=松林の土手を通り海岸に出た。
人が多いと感じた。酒を飲んでいるおじさん達もいて、いやだなと感じた。
寺泊方面に向かって土手を歩いていた。他にも何人か歩いている気配はあった。
彼らと250mほど離れていた。海岸に座って家内と話していると、波打際から男(工作員チェ・スンツル)が現れた。
実は彼は大阪生まれ。終戦後、韓国へ渡り、5年間の貧しい生活の後、朝鮮戦争で北朝鮮側についた。
終戦から3年後には対日工作員となっており、日本語は完璧。

私がたばこを吸っていると、「火を貸してくれ」と声をかけられ、ライターを貸す寸前に襲われた。
顔面を殴られ、暴れたが物陰に引きずられた。
彼らは逮捕されそうになれば自決しなければならない。彼らも必死だった。
「静かにしなさい、静かにしなさい」と片言の日本語が聞こえ、外国の人間にさらわれると思った。
何らかの信号が沖の船に送られ、ボート(日本製)が海岸につけられた。
2人とも袋詰めにされた。(後に高岡での拉致未遂事件に使われたものと同じ道具だと知った。)
ボートに乗せられ、窒息しそうになり、顔だけ出された。
野球場が遠くなっていくのが今も記憶に残る。その後、船に乗せられ、工作員から薬を飲まされ、注射された(睡眠剤)。

気付くと北朝鮮に着いていた。おそらく2晩眠っていたと思う。
清津(チョンジン)=根拠地(秘密連絡所)に上陸した。
両脇を抱えて車に乗せられ、高台のアジトに連れていかれた。
真っ暗なアジトで中年男がニコニコしながら「ようこそ。ここは北朝鮮人民共和国だ」と言われた。
ここで10日間過ごしたが、恐怖の連続だった。
「なぜこんなことをするのか」と聞いても答えは「我々は知らない。平壌に聞け。」
「彼女はどうしたんだ」と聞いても答えは「ピョンヤンに聞け。」
そのうち殴られた顔の腫れを抑えるためだと、ゆで卵を押し付けられた。

14時間、列車に乗って平壌駅に到着後、車に乗せられ山の「招待所」へ連れて行かれた。
秘密工作機関のアジトを「招待所」と呼ぶ(中国も同様)。
拉致したのは調査部であり、招待所地区は7つ。すべて山の中にあり鉄条網で囲まれている。
山の奥深いところに家が隠れるように建てられ、私が連れて行かれた所には14~15の建物があった。
ここには女性がひとりずつ配置され、工作員候補食事の世話や洗濯など、生活の面倒を見ていた。
指導員が寝食を共にしながら工作員として教育し、終了後は金正日の命令が下る。これが招待所の役割。

招待所の幹部になぜこんなことをするのか聞くと、「君を革命家にする」と言われ、恐怖を感じた。
「彼女(祐木子さん)はどうした?」と聞くと「あのあと日本に帰した。心配するな。」と言われ、もう会えないのかと思い落胆した。

工作員教育とは将来のスパイ教育で、実務よりも思想を植え付けることが中心だった。
北朝鮮の教育は金正日主席への忠誠心であり「いかなるときも秘密を守り、いざという時は自決する覚悟」
主席の美談が書かれた文章を読み、感想文を書かされる。「チュチェ思想」と呼ばれる北朝鮮の指導方針だった。
私は嫌で嫌で仕方なかった。
あるとき嫌だというと、最初はなだめられたが、嫌だと言い続けると高圧的な態度に変わり、殺されるかと思った。

めぐみさんもなだめられた。
「早く朝鮮語を覚えれば、家に帰してもらえるかもしれない」と言われ、必死に勉強したが未だに帰れない。

嫌々ながら勉強する日々が1年続いたが、ある日突然、教育が中止され、平壌から遠い場所に移された。
そこで課長(指導部の幹部)から突然「結婚するか?お前の彼女(祐木子さん)は北朝鮮にいる。」と言われた。
驚いたが、少しそんな予感(彼女も北朝鮮にいる)もあった。
即座に「結婚させてくれ。」と答えると、2~3日後に別の場所に連れて行かれ、彼女と再会した。
後に聞くと彼女も同じような対応だったという。
再会して1週間後に結婚した。
招待所の食堂で、幹部10人くらいの前で北朝鮮式での結婚式を挙げた。
監視付きで平壌市内を1周し、「革命遺跡」金日成像の前で写真撮影したのが新婚旅行だった。
それから新婚生活が始まったが「余計なことは喋るな」と言われ、常に監視付きだった。

北朝鮮での24年間のうち、3回転機があった。第一の転機が「レバノン女性拉致事件」。

なぜ私達が結婚できたのか、それは「レバノン女性拉致事件」が発端だった。
当時、レバノン人の女性5名が拉致された。
彼女たちは秘書の勉強をしていたが、「日本の商社がレバノンとの交易の為に採用したい」と騙され、平壌に連れて行かれた。
分散して北での教育が始まったが、そのうち2名はスパイの素質を見出された。本人たちも覚悟を決めたようだった。
北朝鮮ではどこにいても監視され、逃げられる気がしない。
2人はスパイ教育を受け入れたが、それは海外逃亡のチャンスを狙ってのことだった。
1年後、スパイとして海外への渡航命令が下った。
まさにチャンス到来。監視指導員をだまし、そのままレバノン大使館に逃げ込んだ。
レバノンでは水面下での交渉の末、残り3人も奪還した。

この事件により北朝鮮による拉致は世界に知れ渡った。
金正日は拉致した人間を信じられなくなり、いったん教育をストップした。
大使館に逃げ込まないように平壌から遠い場所へ移し、結婚させて逃げられないようにした。
ひとりで拉致された人も結婚させた。(曽我ひとみさんとジェンキンスさんのようなケース)

その後、工作員への日本語教育をさせられた。子供も生まれ、拒否できない状況だった。
招待所に通ってくる工作員に日本語を教えるのが役目だった。

第二の転機は1981年11月の大韓航空機爆破事件だった。

実行犯2名はバーレーンまで行ったが逃げられず、服毒自殺をはかった。
生き残った実行犯の金賢姫は、平壌外国語大学で日本語を専攻したスパイだった。
彼女の証言から教育者は子どもを置いて拉致された日本人=田口八重子さんであることが判明。
警察が田口さんの写真を見せたときに、教育者と一致した。

この事件によって、工作員への教育は中止され、その後は帰国するまで翻訳業務に専念した。

第三の転機は1990年。89年にベルリンの壁崩壊により、ソ連も変化を余儀なくされた。
ソ連は新外交政策により韓国と国交を結んだ。
韓国と対立してきた北朝鮮はソ連に裏切られたと感じ、孤立化から逃れるため日本との関係改善を図ることにした。

1990年9月に、訪朝した金丸元副総理と社会党の田辺誠委員長が、朝鮮労働党との間で、日朝国交正常化に向けた政府間交渉を促す3党共同宣言に署名した。
金正日は国交正常化に伴い過去の清算を求めたが、日本およびアメリカの反応は悪く、国交正常化会談の雲行きは怪しくなってきた。
正常化会談8回目にしてはじめて拉致問題を正式に提起したが、大韓航空機爆破の実行犯が明らかになったことを受けて会談は決裂した。

しかしこれが布石となる。
1998年に韓国の金大沖大統領がノーベル平和賞を受賞したことを機に、北朝鮮は「過去の清算=500億円」を求めて再び日本との交渉を開始。

2002年3月、北朝鮮労働党幹部から「わが党は決断した。これから日本と関係改善する為に一役買ってくれ。必要に応じて日本人に会い、幸せに暮らしているとアピールせよ。」と言われた。
北朝鮮は拉致被害者を日本に帰す気はなかった。
「拉致されたと言うな。北朝鮮の船に救われたことにしろ。」と言われた。
そのストーリーは
「モーターボートに乗っていたらエンジンが壊れ、漂流しているところを北朝鮮の船に救われた。北朝鮮の病院で治療を受け、自分から懇願して北朝鮮に残った」
というもので、日本人は信じるはずはないと言ったが、「同じ話を繰り返せば相手は信じる」と言われた。

その年の6月に平壌に引っ越した。
日本の家族が北朝鮮に来た時に会うためであり、「幸せをアピール」するためだった。

そして9月17日、小泉総理が訪朝。
その時、朝からホテルの一室にて待たされた。盗聴器が仕掛けられた部屋だった。
日本の外務省職員2名が訪れ「本人確認のために来た」と言われた。
「小学校の同級生の名前を全員書け」と言われたが、すべて覚えていたので書いた。
家の周りの風景、庭には当時どんな木があったかも絵に描いた。
帰国して両親にその絵を見せたところ「間違いない」。

外務省は事前に13名のリストを持って行き、そこで確認すればよかったのに持って来なかった。
拉致被害者が生きていると知って、リストを取りに戻った。

翌年2月28日、日本から調査団が来て、亡くなった拉致被害者8名についても我々にも聞きにくることなった、と言われた。
金正日は2日前に拉致を認めて謝罪した。ただし自分は関与していないとも。

10月に入り、「日本から家族は来ない。日本側は、まずは拉致被害者を返せと言ってきた。」と告げられた。
「日本では何も喋るな。幸せそうに見せかけ1週間で帰ってこい。」と言われた。
それまで自分の身に起こっていることに実感が沸かなかったが、日本行きの飛行機が離陸した時ようやく実感が沸いた。
飛行機に乗って上空から日本列島をはじめて見た。これが日本だと感じた。

日本に着いて飛行機から降り、テレビカメラの多さに驚いた。
そこから家族間でのバトルがはじまった。
家族は帰るなと言うが、子どもを残してきたから帰るしかない。その間、色々な話を聞いた。
そのとき、北朝鮮は弱い立場にあって慌てていると感じた。

日本政府からは残れとは言わなかったが、「日本に残るなら全力を挙げて北朝鮮の家族を取り戻す。」と言われた。
自分はもう北朝鮮に戻りたくなかった。家内は子供たちのことを思い反対したが、残ることを決断した。

それから半年たっても子どもを取り戻せず、落ち込んだ。
「帰って来れなかったらどうしよう?」と口にした時、母から叱咤された。
「たった1年くらいで何を言っているのだ。自分は24年待った」と。

そして小泉総理が2度目の訪朝。しかし帰ってきたのは自分たちの子供だけ。他の拉致被害者が帰国できず落胆した。
市役所職員から「小泉総理へのお礼はないのか、との声がある」と聞かされ、記者会見の冒頭で謝辞を述べた。

その後、まだ誰も帰って来ないことに心が痛む。例え私が北朝鮮に行っても取り戻せない。

日本政府は動いている。
北朝鮮は困難な状況にあり、プレッシャーをかけられている。

日本国民はいつまでも忘れない。
たとえ親御さんが亡くなっても絶対にあきらめないが、親御さんの存命中に帰さなかったら恨んでやる!
との姿勢を示し続けることが大切。

北朝鮮とは国交を結び、「過去の清算」はしなければならない。そうすれば解決するはず。
しかし、なかなか状況は動かないのがもどかしい。

今日ご来場の皆さんにも、拉致問題解決を求め続けていただきたい。

(以上)

柏崎日報2020.11.20記事

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新潟日報2020.11.21記事

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拉致問題の実態および核心に触れる内容の講演でした。

拉致という人権侵害・国家犯罪が、政治的事情に翻弄された挙句、交渉カードになってしまっていることが、解決に至らない要因だと感じます。

残されたご家族とご本人の為にも、また日本の威信をかけても、国民のひとりとして、また政治に携わる者として「必ず取り戻す」意思を示し続けていきたいものです。

2020年10月12日 (月)

拉致問題を考えるパネル展

今週から柏崎市役所1Fロビー(正面玄関の奥)で「拉致問題を考えるパネル展」がはじまりました。あわせてアニメ「めぐみ」も待合スペースで放映しています。

柏崎市 「拉致問題を考えるパネル展」開催中

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北朝鮮による拉致被害者・横田めぐみさんのお父さん・滋さんが今年6月に87歳で亡くなり、被害者の親世代は横田早紀江さん(84)、有本恵子さんのお父さんである明弘さん(91)の2名のみとなりました。

亡くなった親御さん達はどれほど無念だったことかと思います・・。

昨年、柏崎では曽我ひとみさんの講演会が開催されました。

曽我ひとみさん講演会

今年の2月定例会議では「拉致問題解決に向けて」として一般質問を行いました(再掲)。

(近藤)

北朝鮮による拉致被害者5名が帰国してから18年。いまだに拉致問題が解決しないまま高齢の未帰国被害者親世代は3名のみとなり、拉致事件そのものが風化していくことも危惧される。

拉致被害者を有する柏崎市では蓮池薫さんによる小中学校での特別授業、曽我ひとみさんによる市民向け講演会、市長による国への要望や北朝鮮に対するメッセージ発信等を行ってきたが、一方でドキュメンタリーアニメ「めぐみ」DVD活用が停滞していた状況もある。

拉致問題解決のためには柏崎市民が日本人として当事者意識を持って、拉致問題解決を求めていくことが大切だと思う。
また日本政府は拉致問題解決のために、国際社会の理解と協力を求めている、私たち日本人も「奪われた仲間を取り戻したい!」との意思を発信するとともに、国際社会の一員として、世界の人権問題に目を向けることも必要ではないか。
 
これまで柏崎市が行ってきた拉致問題啓発活動が、児童生徒や市民の当事者意識の醸成や行動の変容、世界の人権問題に対する意識の高揚につながっているか、また「めぐみ」DVDの現在の活用状況について伺いたい。

(市長・教育長)

一般市民向けのパネル展等開催のほか、小中学校では蓮池薫さんが講演を行い(保護者・地域の方々にもお声掛けしている)、拉致の現実や日本では当たり前である自由や夢を持てる環境が北朝鮮にはないことを学んでいる。

当初は中学のみで行っていた講演を、小学校が自ら企画して蓮池さんを招へいするケースもある。講演後、児童生徒が自らできることを考え、拉致被害者ご家族(横田さんご夫妻)や安倍総理にメッセージを送るなど、拉致被害者帰国を願う行動が生まれている。

DVD「めぐみ」は活用方法を見直し、教職員の研修で視聴し、小中学校での上映も一時期より増えつつある。拉致問題が非人道的な国家犯罪・人権問題だと教える一方で、北朝鮮の国民には罪はないことも伝え、ヘイトスピーチにつながらないよう配慮している。

 

柏崎市は拉致問題の「当事者自治体」であることを常に意識し、解決を求める気運を醸成し続けることが必要だと感じています。

 

菅新政権では拉致問題を最優先課題として位置付け、YouTubeに公式動画チャンネルを開設しました。

拉致問題解決を求める国際社会の声

決してあきらめることなく、解決を求める気持ちを国民全体で共有し、実現につなげていきたいものです。

2019年9月14日 (土)

曽我ひとみさん講演会

本日9月14日、曽我ひとみさん講演会(柏崎市主催)に参加しました。

曽我さんは昭和53年(1978年)に母ミヨシさんとともに北朝鮮に拉致され、24年もの間、ご家族と離れ離れでの生活を余儀なくされました。
この間、チャールズ:ジェンキンス氏とご結婚され、2人のお子様に恵まれました。
2002年10月に日本に帰国を果たすことができ、2年後にはご主人と二人のお子様が日本へ帰国されたものの、母ミヨシさんとの再会はいまだ果たせていません。
現在ミヨシさんは87歳。他の11人の拉致被害者とともに、一刻も早い救出を願い、政府への要望や講演活動を行っていらっしゃいます。

以下はその内容です。

<柏崎市の拉致問題取り組み>

平成14年、小浜・佐渡・柏崎 拉致被害者関係市連絡会をつくり、政府に拉致問題全面解決のぞむ要望書を毎年提出している。
拉致を知らない若い世代も増え、拉致問題の風化が懸念される。
拉致被害者がいることが「遠い国の話」にならないよう、若年者への啓発として、蓮池薫さんに中学生への講話をお願いしている。
「知らない」ことが解決の障害にならないよう、また解決のために行動するきっかけになるよう、本日の講演会を企画した。

 

<櫻井市長より>

曽我さんは43年前に拉致され、何気ない日常、家族との生活ができない年月を過ごされた。
何気ない日常生活を送れることに喜び、ありがたさを感じていただきたい。
また曽我さんの想いを共有し、より多くの方々に伝えていただきたい。
尚、今回の講演会は、蓮池薫さん・由紀子さんご夫妻が佐渡に訪れた折、曽我さんとお話して、ぜひ柏崎へお越しいただきたいということで実現した。
蓮池さんのご両親も会場には見えられている。
親と子がお互いを思い合う気持ちを共有していただきたい。

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<曽我ひとみさん>

今年は私が帰国して17年目、拉致されてから43年目となる。
昭和に拉致され、平成に帰国できたことは、私にとっては幸運だった。
しかし昭和に起きた拉致事件が、3つの年号をまたがっても解決できないのはなぜ?

24年間、北朝鮮で過ごした私だからこそ言えることがある。

過酷な環境で、耐えることが限界に達している苦しさを想像していただきたい。
拉致された当時は20代前後の若者は、今は老齢期を迎え、孫やひ孫がいるかもしれない。

北挑戦で新たな家庭を築き、家族のかたちが確立されていれば、今さら日本に帰って自分の居場所はあるのだろか?と悩みを抱える人もいるかもしれない。それだけ流れた時間は長すぎた。

幸い私たち帰国した5人の子ども達は当時は学生で、さまざまな支援を受けて今は社会生活ができている。
だが、あまりにも長い時間が経っているにも関わらず、全員帰国できない。

北朝鮮の時間稼ぎによって、拉致被害者は日本に帰ることに不安を感じているかもしれない。
拉致被害者家族の高齢化、拉致問題の風化に、私自身も不安を抱いている。
だからこそ1日も早い解決を望む。

私が体験したこと、母のことを聞いていただきたい。
昭和63年8月12日、夜7時過ぎのこと。
当時の私は佐渡総合病院で准看護師として働き、週末は実家に帰って疲れを癒すのが常だった。
その日も実家に帰り、母はいつも通り仕事に行き、帰宅後は食事をつくって家族と過ごしていた。
翌日はお盆で、母はお供え物のお赤飯を準備していたが、足りないものに気付き、買い物に出ることにした。
二人で近所の雑貨屋へ行った。家から400~500mの距離の、同じ集落内の雑貨屋だった。
買い物をすませ、店を出てたわいもない話をしながら歩いていると、後ろから足音が聴こえた。
急ぐ風ではないものの、足音の間隔が徐々に狭まってきた。
振り向くと3人の男性の姿が見え、「何だろう?少し気味が悪いね」と母と話した。

家まであと100m足らずのところで、男性3人は足早に私と母の前に回り込み、突然口をふさがれ、手足を縛られ、南京袋を被せられて運ばれた。
少しすると川の音が聞こえた。現場では男性と女性が日本語で何かを話していた。
女性の日本語は少し変だと感じた。
そのまま小さな船に乗せられ、沖まで連れて行かれ、そのあと大きな船に乗せられた。
南京袋は外されたが暗い船室に押し込められた。
自分の身に起きたことに恐怖し、声を殺して泣くばかり。そのうち泣き疲れて眠っていたらしい。
ひとりの男性が食べ物を持ってきた。数時間経つとまた、同じ男が食べ物を持ってきた。
さらに数時間後、どこかに着いた。外の明かりが差し込み、まぶしくて一瞬目をつぶった。
徐々に明るさに慣れ、見渡すとさびれた港だった。
時計は8月13日、午後5時だった。

日本語を話す女性に「ここはどこか」と聞いたら「北朝鮮」・・当時は初めて聞く国名だった。
船を降りると大きな車が停まっていた。
工作員と思える男性が「これに乗って駅に行き、列車で平壌へ向かう」
「母はどこにいますか?」と聞くと「お母さんは日本で元気に暮らしている」
かなり威圧感があり、それ以上、母のことは聞けなかった。

途中で1泊し平壌に着いたのは、8月15日早朝だった。
招待所まで連れて行かれ、日本語を話すおばさんと生活した。
この女性はのちに国際指名手配されたキム・ヨンス。
拉致実行犯と一緒に暮らしていたのだから、今考えてもおかしな環境だった。

おばさん(キム・ヨンス)は日本語すべてを理解していないし、私も北朝鮮の言葉はわからないので、あまり細かい意思疎通ができなかった。
見るもの・聞くことすべて理解不能で、これからどうなるかという不安と孤独感で、気が狂いそうだった。

平壌に来て数日後、組織の幹部がきて「今日から別の招待所に移る」と言われた。

招待所には先にひとりの少女がいて、笑顔で迎えてくれた。それが横田めぐみさんだった。
めぐみさんは妹と同じくらいの年で、すぐに仲良くなった。
えくぼの可愛い少女で、あのときの笑顔は今も忘れられない。

めぐみさんは、私といるときはいつも笑顔だった。
一緒にいた8か月の生活は大変ではあったが、めぐみさんのおかげで嫌なことを考える時間がなくなった。

二人っきりの時、あるいは皆が寝静まったあと、小声で日本語で話をした。
家族のこと、友達のこと、学校のこと・・・
外に出るときは、二人でこっそり日本の歌を歌った。
指導員に見つかれば大目玉だが、二人とも日本が恋しかった。
毎日、どうしたら日本に帰れるだろう?と考えていた。
結局、帰国できるまで24年かかった。

皆さんは北朝鮮にどんなイメージを抱いていますか?
極悪非道な国?冷血な人種?

たしかに拉致を指導・実行した人達は犯罪者だと思う。
でもそれ以外は普通の人だった。
ただし特別地区に暮らしていた人達なので、一般の人達のことはわからない。
指導員と呼ばれる監視役は皆いい人だった。

北朝鮮の生活水準は低く、物資は常に不足していた。
一部の特権階級の犠牲になって、それ以外の人達はなんとか命をつなぐ状況。

娘たちのエピソードをご紹介したい。
彼女たちの運動会には誰も来ない。
なぜなら自分たち夫婦は隔離され、娘たちの学校に行くことができないからだ。
他の子たちは家族と一緒にお昼を食べる。
誰も家族が来ない娘たちがポツンとしていると、友達の家族が呼び寄せてくれて、食べ物もわけてくれた。
自分達だって決して裕福ではないのに、親御さんは「好きなだけ食べなさい」と、娘たちに食事をごちそうしてくれた。
組織と無関係な人達はごく普通の人達。このことも知っていただきたい。

話を戻すと、拉致されたあと結婚し、新婚当初は別地区にある一軒家の招待所にいた。
娘が生まれて1か月経つと、亡命した米兵達が住む特別区のアパートに移された。

蓮池さんご夫妻がいた招待所は私達がいたところと異なっている。
同じ拉致被害者であっても、アジア系の見た目が同じ人達と、外国人が暮らす地域は別になっていた。

2年後には次女が生まれ、アパートでは他にも子ども達がいる家族が住んでいた。
アパート専門の保育園(保育士ひとり配置)に2年間通い、言葉など教えられていた。

生活は苦しかったが ひとりでなくなったことが嬉しかった。

自己流の子育てだったが、アパートの先輩方のアドバイスのおかげで、子供達は大病せずにすくすく成長した。

いちばん親切にしてくれたのは、同じアパートのタイ人女性・アノーチャさんだった。
彼女も拉致された人で、すでにご主人が亡くなっていた。
娘たちが慕っていて、私にとっても姉、母のような人だった。

長女が小学校に上がる前に引っ越ししたので、分かれ分かれになったが、彼女も拉致被害者のひとりであり、救出を待っていると思う。

子育て中に残念だったことは 子どもの学校行事に参加できなかったこと。
隔離されていたから、学校に行くことが許されず、遠くから見ることもできなかった。
そんな状況でも子ども達は元気に育ってくれたことが嬉しかった。

つらかったのは冬。北朝鮮の冬は、痛いくらいの寒さで肌につきささるようだった。
柏崎も大雪に見舞われるだろうが、氷点下20~30℃になる北朝鮮の比ではない。
帰国してから今の生活が当たり前となった。北の生活はもう嫌。

北朝鮮は発電技術が未発達で、しばしば重油不足となり停電した。
お風呂に入れないため、体をお湯でしぼった布で拭くが、すぐに冷えてしまう。
夜は寒くて眠れず、家中の服を着込んで、家族がかたまって眠った。

スイッチひとつで冷暖房使い放題の日本は、北朝鮮の住民からみれば天国だ。
拉致された当時の日本と比べても、北朝鮮の文化レベルは低い。
それでも我が家には古い家電製品はあり、一般住民よりは恵まれていた。
ただし停電により家電はたびたび使えなくなった。

家電はいつ頃の製造かわからない古い製品で、維持費もかかった。
洗濯物は雨水をためて手洗いしていた。

おそらく今も北朝鮮国民の文化レベルは変わらない。
何年も続く経済制裁により、一般の人たちの生活困窮はピークに達していると思う。
食糧難もひどすぎて全国民を救えない。
北朝鮮に住んでいたからこそわかるが、彼らの生活は皆さんが想像する以上に過酷だ。
特権階級のために、いつも一般の人々が犠牲になっている。

北朝鮮では買い物は週1回許され、指導員に頼み車を迎えに寄こしてもらった。
どうしても足りないものがある時はこっそり買い物に行くしかないが、指導員に見つかると怒られる。

闇市での失敗談がある。
「中身がわからないものは買ってはならない」と思いつつ卵を買ったことがある。
ひとつ割ったらヒヨコになりかけ、もうひとつ割るとドロドロに腐っていた。
半分以上はダメだったが、それでも残った卵を使い誕生日のケーキを焼くことできた。
買い物ひとつとっても日本は幸せであることを、再確認していただきたい。

北朝鮮では最低限の生活費が毎月決まった日に配給される。

必要経費を振り分け、どうしても欲しいものは貯金して買うしかないが、突発的な家電故障などがあり、家計は厳しかった。

食料品はほぼ北朝鮮製、たまに中国製だった。日本製は安全だがすべて高く、とても手が出せなかった。

お金が足りないと闇市に行き、トウモロコシの粉をこねてうどん、パスタ代用品にした。
主食として白い米を目にすることがない。
一家に支給される米の量も決まっていたが、常に石や虫が混ざっている「灰色の米」だった。

インドネシアで家族と再会したとき、日本からお米を持って行き、炊いてもらった。
「お米って白いんだね」「変な匂いがしないんだね」「こんなおいしいご飯食べたのは初めて」と娘達は喜んでいた。

拉致されてから24年間、よく無事に生き延びたと自分をほめたい。
要因は大きな病気をしなかったことだと思う。

北朝鮮では医療技術が遅れ、さらに医療設備はおそまつな状態。
健康診断もないので、症状出てから病院に行っても間に合わないことが多い。
日本でいう診療所レベルの「病院」しかない。
診断を間違うので、命に関わる病気でも治療してもらえない。

同じアパートの人は病院で風邪と診断されたが、実は癌だった。
やはり拉致された人だった。
その人にだって夢があり、やりたいこともあったはず。なんて理不尽な人生だろう?

拉致された人たちの中には、命にかかわる病気で亡くなった人がいるかもしれない。
あまりにも時間が経ちすぎている。
もし重篤な病状でも、医療では助けられない。
病気で亡くなってしまっていた、という拉致被害者をひとりも出したくない。
1分でも1秒でも早く解決してほしい。

私個人の力では無理だが、母を含む被害者全員が帰れるよう、講演、署名など行ってきた。

母がどうなったかいまだ解明されていない。
北朝鮮は「未入国」としている。
母も今年は米寿で88歳、日本にいれば元気にしていただろうが、北朝鮮にいればどうなっているかわからない。

母の話は手記にも書いたが、いつも同じ姿が目に浮かぶ。
母は朝早くから夜遅くまで、身を粉にして働いていた。
朝の仕事を終えると私たちに朝食を食べさせ、自分も食べてから工場へ出勤。
帰宅すると夕食をつくり、片付けのあと、ザルをつくる内職をするのが母の毎日の生活パターンだった。

当時、私の家は貧しく、母が朝から晩まで働いても生活は楽でなかった。
母は愚痴をこぼさず、いつも明るくふるまい、子ども達が少々悪いことをしても怒らない。
自分よりも子供のことをいちばんに考える、優しい母だった。

私の遠足では、いろいろなおかずの入ったお弁当を持たせてくれた。
でも母の弁当はごはんと塩辛い漬物だけ。

「どうして母ちゃんは漬物だけなの?」と聞くと、「漬物が塩辛いから腹いっぱいご飯が食べられるんだ」
・・今なら母の気持ちがわかる。

友達の着ていた新しいセーターがうらやましくて、家のタンスからお金持ち出しセーターを買ってしまった。
家族といえど許されない行為のはずだが、気付いても母は怒らなかった。

「母ちゃんが買ってやれなくて、かんにん(ごめん)な」・・頭ごなしに怒られるよりも心に突き刺さった。
本当に優しい母だった。

盆踊りの時、友達はみんな浴衣だった。うらやましい、仲間外れになりたくないという気持ちから

「私も浴衣で行きたい。祭りまでに浴衣を縫って」と駄々をこねた。

母は和裁ができたからだが、文句も言わず浴衣を夜なべで縫ってくれた。

いま思い出しても無理ばかりさせた。反省と感謝しかない。
あの頃の母はどんな気持ちだったのだろうか。
働きづくめで、おしゃれもできず、数えるくらいしか出かけなかった。

母の写真は両手の指で数えられるくらいしか残っていない。
母がいなくなった年齢である46歳を自分はとうに越した。
母のわがまま受け止めたい。愚痴をこぼして本当の気持ちを話してほしい。

帰ってきたら、やりたいことをさせたい。
おしゃれをして旅行へ出かけ、笑い声のたえない生活をしてほしい。

そんな未来を希望するが、母の年齢を考えるともうそんなに待てない。

帰国してから、国家間での難しいことはわからないが、ニュースは常に意識している。
北朝鮮はミサイル発射実験を繰り返し、何がしたいかわからない。

政府も手をこまねいているわけではないと思うが、日朝協議首脳会談の道筋をつくり、粘り強く交渉続けてほしい。

毎年「今年こそ」と思いながら、ここまで来てしまった。
40年は長すぎる。これ以上時間はかけられない。

北朝鮮の一般的な生活状況は、さらに悪くなっている。
現地に暮らす日本人はこう思っていることだろう。
「いつ私を助けてくれますか?誰でもいい、私をふるさとへ帰してください」

世界でたったひとりの母も、現在どうなっているかわからない。
丈夫だけが取り得の人だから、日本にいれば今も元気に畑仕事をしていたに違いない。
しかし病気になればどうなるか?
足腰が弱り、自分のことできなくなっているのでは?

北朝鮮には日本のように介護施設もない。自分と家族と隣近所の人だけが頼り。
元気でいることを願うしかないが、残された時間が少ない。

時間との勝負は家族会の親世代も同じ。
皆さんはいつ倒れてもおかしくないのに、公の場に姿を見せ、満身創痍で活動を続けられている。
1日も早く、ひとりでも多くの日本人拉致人被害者取り戻したい。

署名1筆の積み重ねが、奪われた人たちを取り戻すことの助けとなる。
今日の話を一部でもいいから、知人・友人へ伝えていただきたい。

まだ解決しない拉致問題に奔走する家族と、過酷な環境で救出の日を待つ拉致被害者の
「お帰り」「ただいま」を一日も早く聞けるように。

___________

質疑応答

(市内教員)
拉致問題を知らない若い世代が増えている。
教員である私に何ができるかといえば、子ども達と学び、考えていくこと。
「北朝鮮の人々は普通の人達」
今日のお話を聞いて、拉致問題を伝えるとき、ヘイトスピーチになってはいけないとあらためて感じた。
では逆に何を伝えるべき?大切にすることは?

(曽我さん)
ある学校で小学4~5年生くらいの子ども達から質問された。
「拉致って何ですか?」
ひとことで言えば「人さらい」だが、子ども達に「拉致とは何か」というところから入っていくべきという想いになった。
北朝鮮の一般の人達は、拉致が起こっていることさえ知らない、普通の人達だと思う。

なぜ子ども達に拉致の話を言い続けているか?
今は日本と北朝鮮は仲良くないが、拉致問題やいろんなことが解決した暁には、子ども達もきっと仲良くなれるに違いない。

私自身は嘘はつきたくない。
皆さんは北挑戦に良いイメージ持っていないだろうが、そうではない、良い人もいるということを伝えたい。
拉致されたために自分の人生が狂ってしまい、仲の良い家族と長い間、離れ離れになることの苦しさ、痛みを教えてほしい。
だからまずは今ある家族を大切にしてほしい。

 

(市内会社員)
曽我さんのお話を伺い、「生きる姿勢」に感銘を受けた。
突然日常を奪われ、お母さんとも離れ離れになり、人生を狂わされてしまいながら、どんな心境で生きてこられた?
他の苦しい想いを抱えて生きている人達へのアドバイスとして、ひとことお願いしたい。

(曽我さん)
私のような者がアドバイスする立場にはないと思う。
拉致されて北朝鮮にいたころ、自分自身これからどうなっていくのだろう?もう日本には帰れないのだろうか?とずっと考えていた。
生きる勇気がなくなったことも正直何度もあった。
ある程度のことは時間が解決してくれる。

家族が出来てからは「どうせ日本に帰れないなら、ここで出来た家族をもっともっと大切にして愛していかなければならない」と考え方を切りかえた。
家族を守っていこうと考えたとき、自分自身が強くなった。
家族とどんなことがあっても一緒にいたい。
日本の父や妹に何もしてあげられない分、自分の家族にはできる限りのことをしていこうと思うようになった。

 

(市内某氏)

私は今後も拉致問題は解決できないと思っている。
その大元は日中戦争後の処理、戦後補償きちんとやらなかったからではないか。
日本は北朝鮮から70万~200万人拉致したのに、それを無視している。
西ドイツのブラント首相はナチスドイツの罪を土下座で謝った。
十数兆円の補償金を日本は支払い・・

(桜井市長より「ここは質問の場です。質問をしてください!」と言われ・・)

安部首相に謝罪させるにはどうすればいいか?

(曽我さん)
大変難しい質問で回答も難しい。
私が安部首相にどうこう言うことは個人的に難しい。
とにかく1日も早く拉致被害者が帰国できることを願って活動を続けたい。

 

<蓮池薫さん、由紀子さん>

皆さんにお話ししたいのは、私の場合は家族全員帰ってきた。
曽我さんは、お母さんがまだ北朝鮮に残っているにも関わらず、つらい思いを推して貴重なお話をしてくださった。
そのことに敬意を表するとともに、「お母さん取り戻したい」との決意と覚悟をあらためて強く感じた。

曽我さんと私の拉致のケースは似ている。おそらく同じ部署による作戦だったと思う。
しかしそれぞれの結婚を機に担当部署分かれたと考えられる。

17名認定拉致被害者がいるが、うち4名は北朝鮮は未入国としている。
曽我さんは「お母さんは日本に帰した」と言われたが、私たち夫婦も結婚前はそれぞれ「相手は日本に帰した」と言われていた。

間違いなくミヨシさんは北挑戦にいらっしゃる。
ミヨシさんは当時46歳。
拉致の目的は色々で、日本教育に使いたいという意図もあった。我々も協力させられた。
46歳であれば、社会経験もあり、北朝鮮にとって(利用)価値がある。
必ずミヨシさんは北朝鮮にいるはずだ。
拉致認定者のおひとり田中さんも、未入国と言われたが、あとから存在を認めている。
今なお北朝鮮にいらっしゃると確信している。

もうひとつ申し上げたいのは、曽我さんが北朝鮮の「優しい人たち」についてお話ししたこと。
拉致を行ったのはごく一部の支配層であり、勝手な目的により、手段や方法を選ばない。

北朝鮮の一般の人々とはいずれは仲良くなってほしい。

北朝鮮の上層部には反省し、拉致被害者を返してもらいたい。
日本も過去の清算は必要で、2002年の平壌宣言で戦後補償を行うと約束しながら不履行のまま。
互いの懸案問題を解消することが必要。ヘイトスピーチとは関係ない。

拉致されてからの24年間、最初こそ帰してほしいと思いながら、次第に腹をくくって家族を守ってここで生きようと覚悟した。
私たちは幸いにも帰ることができたが、残された拉致被害者たちも、その様子を見ているはず。
残された被害者はどれだけ不安でつらい想いをしているだろうか?
限界を超える状態の中で17年間待たされている。
今後も拉致問題に関心を持っていただき、帰れない人たちの救出のためにご協力いただきたい。

 

<桜井市長より>

今日は曽我ひとみさんのお話しじっくりお聞きした。
世の中には色々な考えの方々がいて、ついうっかり「あなたの気持ちや考えはよくわかります」と言ってしまう。
けれど本当は人の心や考えを理解することは基本的にはできないのではないか。

私たちは今日、曽我さんの話を伺い、曽我さんのお母さん=ミヨシさんへの想いを想像するしかない。
蓮池薫さん、由紀子さんのお考え・想い、ずっと待っていらしたご両親の想いも想像するしかない。

だからこそ曽我さんのお母さんのこと、お弁当の話、セーターの話など、より多くの方々、特に若い人たちにお話しいただきたい。
そしてより多くの方々が曽我さんの想いを共有、想像できるようお願いしたい。

________________

終了後は会場外で署名活動が行われました。

私たちにできること(柏崎市より)

1、多くの方々と思いを共有する

拉致被害者の思い、帰国を待つご家族の思いを共有しましょう。
今日のお話で感じたことを、ご家族、ご友人にもお伝えいただき、多くの方とこの思いを共有しましょう。

 

2、安部首相にメール・はがきを送る

首相官邸のホームページ「ご意見・ご感想」からご意見を送ることができます。
はがきの場合
〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 安部晋三 殿

 

3、ブルーリボン着用

ブルーリボンは「取り戻す」ためのシンボルです。
拉致被害者の救出を求める国民運動は、ブルーリボンと青色を運動のシンボルにしています。
青色は、被害者の祖国日本と北朝鮮を隔てる「日本海の青」を、また被害者とご家族を唯一結んでいる「青い空」をイメージしています。

ブルーリボンお問い合わせ先は、柏崎市人権啓発・男女共同参画室(0257-20-7605)

 

一日も早い解決に向けて、より多くの方々と共有すべく、ここに記した次第です。

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