経済・政治・国際

2019年9月14日 (土)

曽我ひとみさん講演会

本日9月14日、曽我ひとみさん講演会(柏崎市主催)に参加しました。

曽我さんは昭和53年(1978年)に母ミヨシさんとともに北朝鮮に拉致され、24年もの間、ご家族と離れ離れでの生活を余儀なくされました。
この間、チャールズ:ジェンキンス氏とご結婚され、2人のお子様に恵まれました。
2002年10月に日本に帰国を果たすことができ、2年後にはご主人と二人のお子様が日本へ帰国されたものの、母ミヨシさんとの再会はいまだ果たせていません。
現在ミヨシさんは87歳。他の11人の拉致被害者とともに、一刻も早い救出を願い、政府への要望や講演活動を行っていらっしゃいます。

以下はその内容です。

<柏崎市の拉致問題取り組み>

平成14年、小浜・佐渡・柏崎 拉致被害者関係市連絡会をつくり、政府に拉致問題全面解決のぞむ要望書を毎年提出している。
拉致を知らない若い世代も増え、拉致問題の風化が懸念される。
拉致被害者がいることが「遠い国の話」にならないよう、若年者への啓発として、蓮池薫さんに中学生への講話をお願いしている。
「知らない」ことが解決の障害にならないよう、また解決のために行動するきっかけになるよう、本日の講演会を企画した。

 

<櫻井市長より>

曽我さんは43年前に拉致され、何気ない日常、家族との生活ができない年月を過ごされた。
何気ない日常生活を送れることに喜び、ありがたさを感じていただきたい。
また曽我さんの想いを共有し、より多くの方々に伝えていただきたい。
尚、今回の講演会は、蓮池薫さん・由紀子さんご夫妻が佐渡に訪れた折、曽我さんとお話して、ぜひ柏崎へお越しいただきたいということで実現した。
蓮池さんのご両親も会場には見えられている。
親と子がお互いを思い合う気持ちを共有していただきたい。

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<曽我ひとみさん>

今年は私が帰国して17年目、拉致されてから43年目となる。
昭和に拉致され、平成に帰国できたことは、私にとっては幸運だった。
しかし昭和に起きた拉致事件が、3つの年号をまたがっても解決できないのはなぜ?

24年間、北朝鮮で過ごした私だからこそ言えることがある。

過酷な環境で、耐えることが限界に達している苦しさを想像していただきたい。
拉致された当時は20代前後の若者は、今は老齢期を迎え、孫やひ孫がいるかもしれない。

北挑戦で新たな家庭を築き、家族のかたちが確立されていれば、今さら日本に帰って自分の居場所はあるのだろか?と悩みを抱える人もいるかもしれない。それだけ流れた時間は長すぎた。

幸い私たち帰国した5人の子ども達は当時は学生で、さまざまな支援を受けて今は社会生活ができている。
だが、あまりにも長い時間が経っているにも関わらず、全員帰国できない。

北朝鮮の時間稼ぎによって、拉致被害者は日本に帰ることに不安を感じているかもしれない。
拉致被害者家族の高齢化、拉致問題の風化に、私自身も不安を抱いている。
だからこそ1日も早い解決を望む。

私が体験したこと、母のことを聞いていただきたい。
昭和63年8月12日、夜7時過ぎのこと。
当時の私は佐渡総合病院で准看護師として働き、週末は実家に帰って疲れを癒すのが常だった。
その日も実家に帰り、母はいつも通り仕事に行き、帰宅後は食事をつくって家族と過ごしていた。
翌日はお盆で、母はお供え物のお赤飯を準備していたが、足りないものに気付き、買い物に出ることにした。
二人で近所の雑貨屋へ行った。家から400~500mの距離の、同じ集落内の雑貨屋だった。
買い物をすませ、店を出てたわいもない話をしながら歩いていると、後ろから足音が聴こえた。
急ぐ風ではないものの、足音の間隔が徐々に狭まってきた。
振り向くと3人の男性の姿が見え、「何だろう?少し気味が悪いね」と母と話した。

家まであと100m足らずのところで、男性3人は足早に私と母の前に回り込み、突然口をふさがれ、手足を縛られ、南京袋を被せられて運ばれた。
少しすると川の音が聞こえた。現場では男性と女性が日本語で何かを話していた。
女性の日本語は少し変だと感じた。
そのまま小さな船に乗せられ、沖まで連れて行かれ、そのあと大きな船に乗せられた。
南京袋は外されたが暗い船室に押し込められた。
自分の身に起きたことに恐怖し、声を殺して泣くばかり。そのうち泣き疲れて眠っていたらしい。
ひとりの男性が食べ物を持ってきた。数時間経つとまた、同じ男が食べ物を持ってきた。
さらに数時間後、どこかに着いた。外の明かりが差し込み、まぶしくて一瞬目をつぶった。
徐々に明るさに慣れ、見渡すとさびれた港だった。
時計は8月13日、午後5時だった。

日本語を話す女性に「ここはどこか」と聞いたら「北朝鮮」・・当時は初めて聞く国名だった。
船を降りると大きな車が停まっていた。
工作員と思える男性が「これに乗って駅に行き、列車で平壌へ向かう」
「母はどこにいますか?」と聞くと「お母さんは日本で元気に暮らしている」
かなり威圧感があり、それ以上、母のことは聞けなかった。

途中で1泊し平壌に着いたのは、8月15日早朝だった。
招待所まで連れて行かれ、日本語を話すおばさんと生活した。
この女性はのちに国際指名手配されたキム・ヨンス。
拉致実行犯と一緒に暮らしていたのだから、今考えてもおかしな環境だった。

おばさん(キム・ヨンス)は日本語すべてを理解していないし、私も北朝鮮の言葉はわからないので、あまり細かい意思疎通ができなかった。
見るもの・聞くことすべて理解不能で、これからどうなるかという不安と孤独感で、気が狂いそうだった。

平壌に来て数日後、組織の幹部がきて「今日から別の招待所に移る」と言われた。

招待所には先にひとりの少女がいて、笑顔で迎えてくれた。それが横田めぐみさんだった。
めぐみさんは妹と同じくらいの年で、すぐに仲良くなった。
えくぼの可愛い少女で、あのときの笑顔は今も忘れられない。

めぐみさんは、私といるときはいつも笑顔だった。
一緒にいた8か月の生活は大変ではあったが、めぐみさんのおかげで嫌なことを考える時間がなくなった。

二人っきりの時、あるいは皆が寝静まったあと、小声で日本語で話をした。
家族のこと、友達のこと、学校のこと・・・
外に出るときは、二人でこっそり日本の歌を歌った。
指導員に見つかれば大目玉だが、二人とも日本が恋しかった。
毎日、どうしたら日本に帰れるだろう?と考えていた。
結局、帰国できるまで24年かかった。

皆さんは北朝鮮にどんなイメージを抱いていますか?
極悪非道な国?冷血な人種?

たしかに拉致を指導・実行した人達は犯罪者だと思う。
でもそれ以外は普通の人だった。
ただし特別地区に暮らしていた人達なので、一般の人達のことはわからない。
指導員と呼ばれる監視役は皆いい人だった。

北朝鮮の生活水準は低く、物資は常に不足していた。
一部の特権階級の犠牲になって、それ以外の人達はなんとか命をつなぐ状況。

娘たちのエピソードをご紹介したい。
彼女たちの運動会には誰も来ない。
なぜなら自分たち夫婦は隔離され、娘たちの学校に行くことができないからだ。
他の子たちは家族と一緒にお昼を食べる。
誰も家族が来ない娘たちがポツンとしていると、友達の家族が呼び寄せてくれて、食べ物もわけてくれた。
自分達だって決して裕福ではないのに、親御さんは「好きなだけ食べなさい」と、娘たちに食事をごちそうしてくれた。
組織と無関係な人達はごく普通の人達。このことも知っていただきたい。

話を戻すと、拉致されたあと結婚し、新婚当初は別地区にある一軒家の招待所にいた。
娘が生まれて1か月経つと、亡命した米兵達が住む特別区のアパートに移された。

蓮池さんご夫妻がいた招待所は私達がいたところと異なっている。
同じ拉致被害者であっても、アジア系の見た目が同じ人達と、外国人が暮らす地域は別になっていた。

2年後には次女が生まれ、アパートでは他にも子ども達がいる家族が住んでいた。
アパート専門の保育園(保育士ひとり配置)に2年間通い、言葉など教えられていた。

生活は苦しかったが ひとりでなくなったことが嬉しかった。

自己流の子育てだったが、アパートの先輩方のアドバイスのおかげで、子供達は大病せずにすくすく成長した。

いちばん親切にしてくれたのは、同じアパートのタイ人女性・アノーチャさんだった。
彼女も拉致された人で、すでにご主人が亡くなっていた。
娘たちが慕っていて、私にとっても姉、母のような人だった。

長女が小学校に上がる前に引っ越ししたので、分かれ分かれになったが、彼女も拉致被害者のひとりであり、救出を待っていると思う。

子育て中に残念だったことは 子どもの学校行事に参加できなかったこと。
隔離されていたから、学校に行くことが許されず、遠くから見ることもできなかった。
そんな状況でも子ども達は元気に育ってくれたことが嬉しかった。

つらかったのは冬。北朝鮮の冬は、痛いくらいの寒さで肌につきささるようだった。
柏崎も大雪に見舞われるだろうが、氷点下20~30℃になる北朝鮮の比ではない。
帰国してから今の生活が当たり前となった。北の生活はもう嫌。

北朝鮮は発電技術が未発達で、しばしば重油不足となり停電した。
お風呂に入れないため、体をお湯でしぼった布で拭くが、すぐに冷えてしまう。
夜は寒くて眠れず、家中の服を着込んで、家族がかたまって眠った。

スイッチひとつで冷暖房使い放題の日本は、北朝鮮の住民からみれば天国だ。
拉致された当時の日本と比べても、北朝鮮の文化レベルは低い。
それでも我が家には古い家電製品はあり、一般住民よりは恵まれていた。
ただし停電により家電はたびたび使えなくなった。

家電はいつ頃の製造かわからない古い製品で、維持費もかかった。
洗濯物は雨水をためて手洗いしていた。

おそらく今も北朝鮮国民の文化レベルは変わらない。
何年も続く経済制裁により、一般の人たちの生活困窮はピークに達していると思う。
食糧難もひどすぎて全国民を救えない。
北朝鮮に住んでいたからこそわかるが、彼らの生活は皆さんが想像する以上に過酷だ。
特権階級のために、いつも一般の人々が犠牲になっている。

北朝鮮では買い物は週1回許され、指導員に頼み車を迎えに寄こしてもらった。
どうしても足りないものがある時はこっそり買い物に行くしかないが、指導員に見つかると怒られる。

闇市での失敗談がある。
「中身がわからないものは買ってはならない」と思いつつ卵を買ったことがある。
ひとつ割ったらヒヨコになりかけ、もうひとつ割るとドロドロに腐っていた。
半分以上はダメだったが、それでも残った卵を使い誕生日のケーキを焼くことできた。
買い物ひとつとっても日本は幸せであることを、再確認していただきたい。

北朝鮮では最低限の生活費が毎月決まった日に配給される。

必要経費を振り分け、どうしても欲しいものは貯金して買うしかないが、突発的な家電故障などがあり、家計は厳しかった。

食料品はほぼ北朝鮮製、たまに中国製だった。日本製は安全だがすべて高く、とても手が出せなかった。

お金が足りないと闇市に行き、トウモロコシの粉をこねてうどん、パスタ代用品にした。
主食として白い米を目にすることがない。
一家に支給される米の量も決まっていたが、常に石や虫が混ざっている「灰色の米」だった。

インドネシアで家族と再会したとき、日本からお米を持って行き、炊いてもらった。
「お米って白いんだね」「変な匂いがしないんだね」「こんなおいしいご飯食べたのは初めて」と娘達は喜んでいた。

拉致されてから24年間、よく無事に生き延びたと自分をほめたい。
要因は大きな病気をしなかったことだと思う。

北朝鮮では医療技術が遅れ、さらに医療設備はおそまつな状態。
健康診断もないので、症状出てから病院に行っても間に合わないことが多い。
日本でいう診療所レベルの「病院」しかない。
診断を間違うので、命に関わる病気でも治療してもらえない。

同じアパートの人は病院で風邪と診断されたが、実は癌だった。
やはり拉致された人だった。
その人にだって夢があり、やりたいこともあったはず。なんて理不尽な人生だろう?

拉致された人たちの中には、命にかかわる病気で亡くなった人がいるかもしれない。
あまりにも時間が経ちすぎている。
もし重篤な病状でも、医療では助けられない。
病気で亡くなってしまっていた、という拉致被害者をひとりも出したくない。
1分でも1秒でも早く解決してほしい。

私個人の力では無理だが、母を含む被害者全員が帰れるよう、講演、署名など行ってきた。

母がどうなったかいまだ解明されていない。
北朝鮮は「未入国」としている。
母も今年は米寿で88歳、日本にいれば元気にしていただろうが、北朝鮮にいればどうなっているかわからない。

母の話は手記にも書いたが、いつも同じ姿が目に浮かぶ。
母は朝早くから夜遅くまで、身を粉にして働いていた。
朝の仕事を終えると私たちに朝食を食べさせ、自分も食べてから工場へ出勤。
帰宅すると夕食をつくり、片付けのあと、ザルをつくる内職をするのが母の毎日の生活パターンだった。

当時、私の家は貧しく、母が朝から晩まで働いても生活は楽でなかった。
母は愚痴をこぼさず、いつも明るくふるまい、子ども達が少々悪いことをしても怒らない。
自分よりも子供のことをいちばんに考える、優しい母だった。

私の遠足では、いろいろなおかずの入ったお弁当を持たせてくれた。
でも母の弁当はごはんと塩辛い漬物だけ。

「どうして母ちゃんは漬物だけなの?」と聞くと、「漬物が塩辛いから腹いっぱいご飯が食べられるんだ」
・・今なら母の気持ちがわかる。

友達の着ていた新しいセーターがうらやましくて、家のタンスからお金持ち出しセーターを買ってしまった。
家族といえど許されない行為のはずだが、気付いても母は怒らなかった。

「母ちゃんが買ってやれなくて、かんにん(ごめん)な」・・頭ごなしに怒られるよりも心に突き刺さった。
本当に優しい母だった。

盆踊りの時、友達はみんな浴衣だった。うらやましい、仲間外れになりたくないという気持ちから

「私も浴衣で行きたい。祭りまでに浴衣を縫って」と駄々をこねた。

母は和裁ができたからだが、文句も言わず浴衣を夜なべで縫ってくれた。

いま思い出しても無理ばかりさせた。反省と感謝しかない。
あの頃の母はどんな気持ちだったのだろうか。
働きづくめで、おしゃれもできず、数えるくらいしか出かけなかった。

母の写真は両手の指で数えられるくらいしか残っていない。
母がいなくなった年齢である46歳を自分はとうに越した。
母のわがまま受け止めたい。愚痴をこぼして本当の気持ちを話してほしい。

帰ってきたら、やりたいことをさせたい。
おしゃれをして旅行へ出かけ、笑い声のたえない生活をしてほしい。

そんな未来を希望するが、母の年齢を考えるともうそんなに待てない。

帰国してから、国家間での難しいことはわからないが、ニュースは常に意識している。
北朝鮮はミサイル発射実験を繰り返し、何がしたいかわからない。

政府も手をこまねいているわけではないと思うが、日朝協議首脳会談の道筋をつくり、粘り強く交渉続けてほしい。

毎年「今年こそ」と思いながら、ここまで来てしまった。
40年は長すぎる。これ以上時間はかけられない。

北朝鮮の一般的な生活状況は、さらに悪くなっている。
現地に暮らす日本人はこう思っていることだろう。
「いつ私を助けてくれますか?誰でもいい、私をふるさとへ帰してください」

世界でたったひとりの母も、現在どうなっているかわからない。
丈夫だけが取り得の人だから、日本にいれば今も元気に畑仕事をしていたに違いない。
しかし病気になればどうなるか?
足腰が弱り、自分のことできなくなっているのでは?

北朝鮮には日本のように介護施設もない。自分と家族と隣近所の人だけが頼り。
元気でいることを願うしかないが、残された時間が少ない。

時間との勝負は家族会の親世代も同じ。
皆さんはいつ倒れてもおかしくないのに、公の場に姿を見せ、満身創痍で活動を続けられている。
1日も早く、ひとりでも多くの日本人拉致人被害者取り戻したい。

署名1筆の積み重ねが、奪われた人たちを取り戻すことの助けとなる。
今日の話を一部でもいいから、知人・友人へ伝えていただきたい。

まだ解決しない拉致問題に奔走する家族と、過酷な環境で救出の日を待つ拉致被害者の
「お帰り」「ただいま」を一日も早く聞けるように。

___________

質疑応答

(市内教員)
拉致問題を知らない若い世代が増えている。
教員である私に何ができるかといえば、子ども達と学び、考えていくこと。
「北朝鮮の人々は普通の人達」
今日のお話を聞いて、拉致問題を伝えるとき、ヘイトスピーチになってはいけないとあらためて感じた。
では逆に何を伝えるべき?大切にすることは?

(曽我さん)
ある学校で小学4~5年生くらいの子ども達から質問された。
「拉致って何ですか?」
ひとことで言えば「人さらい」だが、子ども達に「拉致とは何か」というところから入っていくべきという想いになった。
北朝鮮の一般の人達は、拉致が起こっていることさえ知らない、普通の人達だと思う。

なぜ子ども達に拉致の話を言い続けているか?
今は日本と北朝鮮は仲良くないが、拉致問題やいろんなことが解決した暁には、子ども達もきっと仲良くなれるに違いない。

私自身は嘘はつきたくない。
皆さんは北挑戦に良いイメージ持っていないだろうが、そうではない、良い人もいるということを伝えたい。
拉致されたために自分の人生が狂ってしまい、仲の良い家族と長い間、離れ離れになることの苦しさ、痛みを教えてほしい。
だからまずは今ある家族を大切にしてほしい。

 

(市内会社員)
曽我さんのお話を伺い、「生きる姿勢」に感銘を受けた。
突然日常を奪われ、お母さんとも離れ離れになり、人生を狂わされてしまいながら、どんな心境で生きてこられた?
他の苦しい想いを抱えて生きている人達へのアドバイスとして、ひとことお願いしたい。

(曽我さん)
私のような者がアドバイスする立場にはないと思う。
拉致されて北朝鮮にいたころ、自分自身これからどうなっていくのだろう?もう日本には帰れないのだろうか?とずっと考えていた。
生きる勇気がなくなったことも正直何度もあった。
ある程度のことは時間が解決してくれる。

家族が出来てからは「どうせ日本に帰れないなら、ここで出来た家族をもっともっと大切にして愛していかなければならない」と考え方を切りかえた。
家族を守っていこうと考えたとき、自分自身が強くなった。
家族とどんなことがあっても一緒にいたい。
日本の父や妹に何もしてあげられない分、自分の家族にはできる限りのことをしていこうと思うようになった。

 

(市内某氏)

私は今後も拉致問題は解決できないと思っている。
その大元は日中戦争後の処理、戦後補償きちんとやらなかったからではないか。
日本は北朝鮮から70万~200万人拉致したのに、それを無視している。
西ドイツのブラント首相はナチスドイツの罪を土下座で謝った。
十数兆円の補償金を日本は支払い・・

(桜井市長より「ここは質問の場です。質問をしてください!」と言われ・・)

安部首相に謝罪させるにはどうすればいいか?

(曽我さん)
大変難しい質問で回答も難しい。
私が安部首相にどうこう言うことは個人的に難しい。
とにかく1日も早く拉致被害者が帰国できることを願って活動を続けたい。

 

<蓮池薫さん、由紀子さん>

皆さんにお話ししたいのは、私の場合は家族全員帰ってきた。
曽我さんは、お母さんがまだ北朝鮮に残っているにも関わらず、つらい思いを推して貴重なお話をしてくださった。
そのことに敬意を表するとともに、「お母さん取り戻したい」との決意と覚悟をあらためて強く感じた。

曽我さんと私の拉致のケースは似ている。おそらく同じ部署による作戦だったと思う。
しかしそれぞれの結婚を機に担当部署分かれたと考えられる。

17名認定拉致被害者がいるが、うち4名は北朝鮮は未入国としている。
曽我さんは「お母さんは日本に帰した」と言われたが、私たち夫婦も結婚前はそれぞれ「相手は日本に帰した」と言われていた。

間違いなくミヨシさんは北挑戦にいらっしゃる。
ミヨシさんは当時46歳。
拉致の目的は色々で、日本教育に使いたいという意図もあった。我々も協力させられた。
46歳であれば、社会経験もあり、北朝鮮にとって(利用)価値がある。
必ずミヨシさんは北朝鮮にいるはずだ。
拉致認定者のおひとり田中さんも、未入国と言われたが、あとから存在を認めている。
今なお北朝鮮にいらっしゃると確信している。

もうひとつ申し上げたいのは、曽我さんが北朝鮮の「優しい人たち」についてお話ししたこと。
拉致を行ったのはごく一部の支配層であり、勝手な目的により、手段や方法を選ばない。

北朝鮮の一般の人々とはいずれは仲良くなってほしい。

北朝鮮の上層部には反省し、拉致被害者を返してもらいたい。
日本も過去の清算は必要で、2002年の平壌宣言で戦後補償を行うと約束しながら不履行のまま。
互いの懸案問題を解消することが必要。ヘイトスピーチとは関係ない。

拉致されてからの24年間、最初こそ帰してほしいと思いながら、次第に腹をくくって家族を守ってここで生きようと覚悟した。
私たちは幸いにも帰ることができたが、残された拉致被害者たちも、その様子を見ているはず。
残された被害者はどれだけ不安でつらい想いをしているだろうか?
限界を超える状態の中で17年間待たされている。
今後も拉致問題に関心を持っていただき、帰れない人たちの救出のためにご協力いただきたい。

 

<桜井市長より>

今日は曽我ひとみさんのお話しじっくりお聞きした。
世の中には色々な考えの方々がいて、ついうっかり「あなたの気持ちや考えはよくわかります」と言ってしまう。
けれど本当は人の心や考えを理解することは基本的にはできないのではないか。

私たちは今日、曽我さんの話を伺い、曽我さんのお母さん=ミヨシさんへの想いを想像するしかない。
蓮池薫さん、由紀子さんのお考え・想い、ずっと待っていらしたご両親の想いも想像するしかない。

だからこそ曽我さんのお母さんのこと、お弁当の話、セーターの話など、より多くの方々、特に若い人たちにお話しいただきたい。
そしてより多くの方々が曽我さんの想いを共有、想像できるようお願いしたい。

________________

終了後は会場外で署名活動が行われました。

私たちにできること(柏崎市より)

1、多くの方々と思いを共有する

拉致被害者の思い、帰国を待つご家族の思いを共有しましょう。
今日のお話で感じたことを、ご家族、ご友人にもお伝えいただき、多くの方とこの思いを共有しましょう。

 

2、安部首相にメール・はがきを送る

首相官邸のホームページ「ご意見・ご感想」からご意見を送ることができます。
はがきの場合
〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 安部晋三 殿

 

3、ブルーリボン着用

ブルーリボンは「取り戻す」ためのシンボルです。
拉致被害者の救出を求める国民運動は、ブルーリボンと青色を運動のシンボルにしています。
青色は、被害者の祖国日本と北朝鮮を隔てる「日本海の青」を、また被害者とご家族を唯一結んでいる「青い空」をイメージしています。

ブルーリボンお問い合わせ先は、柏崎市人権啓発・男女共同参画室(0257-20-7605)

 

一日も早い解決に向けて、より多くの方々と共有すべく、ここに記した次第です。

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2019年9月 9日 (月)

児童虐待防止活動

9月9日、新潟駅前にて自民党新潟県連女性局として、児童虐待防止の啓発活動「ハッピーオレンジ運動」を行いました。

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痛ましい児童虐待の相談件数は毎年更新されています。

(全国では13万件以上、新潟県では平成30年度2793件)

虐待は以下のように区分されます。

●心理的虐待 ●身体虐待 ●ネグレクト(育児放棄)●性的虐待

直接、身体を傷付けるだけでなく、言葉や態度によって子供に心理的ダメージを負わせることも虐待です。

たとえば子供の前での夫婦喧嘩、威圧的・否定的な言葉がけ、きょうだい間差別、無視・・といったことも虐待にあたります。

国では児童相談所職員の増員、関係各所の連携強化、体罰罰則化など防止策をとっていますが、私達ひとりひとりができることもあるはずです。

そのひとつが「189」の存在と役割を知り、適切に活用することです。

189(いち早く)は児童相談所につながる短縮ダイヤルです。

街頭では189ダイヤルのステッカーを配布しました。

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坂田光子女性局長、高見美加副局長(新潟県議会議員)とご一緒に、街頭演説の機会をいただきましたので、以下のことを訴えました。

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「虐待事件が報じられるたびに、『虐待するくらいなら子供を産まなければ(持たなければ)よかったのに』との声を聞く。

でも最初から虐待しようと思って子供を産む(持つ)人はいないはず。

親である人達が、宝であるはずの我が子を傷付けるような状況に追い込まれていくことを、止めなければならない。

189ダイヤルは児童相談所につながり、虐待通報だけでなく、子育てにおける相談も取り扱う。

もしも子育てに行き詰まったり、周りに相談できる人、頼れる人がいない状況である親御さんがいたら、189に電話をかけてほしい。

もちろん他人の子供が虐待されているかもしれない、と感じたときも通報していただきたい。相談者、通報者の情報は秘密厳守される。

街頭活動では189ステッカーを配布している。小さなステッカーだが大きな意味を持つ。

どうか189ダイヤルのことを覚え、周りの方々に伝え、不幸な子ども・不幸な親をなくすことにつなげていただきたい」

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子ども達が健やかに、笑顔で育つ社会にしていきたいものです。

2019年7月22日 (月)

参議院選挙・開票立会人

参議院選挙開票立会人として、開票所に詰めていました。
立会人は選挙区3名、比例区7名で、私は比例区担当でした。
時系列は以下のようになりました。

20:20 集合・説明
21:15~開票作業開始
23:35 選挙区・有効投票数確定
2:36 比例区・有効投票数確定
3:50 解散
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なぜこれほど時間がかかるかといえば開票作業の厳格化、そして「死に票(無効票)を減らすため」
・・すなわち手書き文字を解読し、該当する候補者が誰か審議するためです。

無効票の条件としては
●候補者等でない者の氏名を記載した投票
●多事記載(指名の下に「へ」、「に」「さんえ」等の記載があるもの
●円、点線、線等の記載がある登場
●雑事、記号、符号のみ記載したもの
●白紙 など

有効票は
●誤字・脱字
●ふりがな付き
●〇〇先生、〇〇さんなど敬称類
●ローマ字、英語 など

という基準はあるものの、「通称認定を受けていない呼称であっても、その呼称が世間一般において当該名簿登載者を指すものと認められる場合は有効」など、さらに細かく規定されているため、判別に時間とパワーを要します。

参議院選挙の全国比例区は150人以上の候補者がいるため、他の選挙より時間がかかると考えられます。

それでも各々1200票以上の無効票は発生しています。
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開票作業にはおそらく100人を越える市の職員が関わっています。
時間経過とともに残っている職員は減っていきましたが、かなり過酷な業務だと思います。

そして立会人は開票された有効票の束に捺印し、最後には確定した投票数をまとめた書類の全ページに捺印、および投票用紙を梱包した箱に何ヵ所も割印します。

この時点で3時をまわり、睡魔と疲労でモーロ―としているため、すべての作業がスピードダウンして効率が悪かったと思います。

すべての作業が終わり、選挙管理委員長の終了宣言をもって解散となりました。
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選挙制度(投開票のやり方)を見直すこと、そして投票率を上げるだけでなく、「適切な投票(無効票にならないように)」も啓発する必要があると強く感じています。

関係者の皆様、大変お疲れ様でした。

2019年4月22日 (月)

希望が続く柏崎のために

このたびの柏崎市議会議員選挙において初当選させていただきました。

支えてくださった皆様、そして投票してくださった皆様に心より御礼申し上げます。

選挙期間中はひたすら街頭演説を繰り返し、累計113回。

最高のウグイス・遠藤さんをはじめ、素晴らしいご縁に恵まれ、多くの方々に助けていただいた選挙戦でした。

(以下は遠藤さんから作成していただいたスライドです)

演説では3つの公約

「現場に光を当てた介護人材の確保」

「ふるさとを未来につなぐ次世代の育成」

「市民目線での議会改革」

についてお話しさせていただきました。

働く人たちが報われ、これまで社会を支えてきた方々が安心して暮らし続けることができる柏崎。

生まれ育つ子ども達が、夢や希望を持ってチャレンジできる、大人になっても住みたいと思える柏崎。

そんな「希望が続く柏崎」のために、ようやくスタートラインに立つことができました。

一票一票の重みと感謝の心を忘れず、誠実かつ地道に頑張ってまいります。

今後とも宜しくお願い申し上げます。

 

2018年12月22日 (土)

議員定数と地域の問題

先般の12月定例会で、議員定数削減の議員発案は否決されたそうです。

また定数の適正化について今後も継続で検討するとした動議が出されたものの、取り下げとなったとも。

私は過去に2回、議員定数見直しを求める請願を提出しています。

一度目は市政を勉強していた有志グループの事務局として平成21年に提出し、継続審査を経て不採択となりました。

二度目は平成29年の9月議会で、こちらは全会一致で採択されたものの、定数自体は変わりませんでした。

私は議会改革とセットで議員定数を減らすべきだと考えています。

理由は議員歳費が税金から出されている以上、議員は地域や特定の団体・世代の代表ではなく、柏崎市民全般の代表であるべきだと思うからです。

定数削減に反対する方々はたいてい「議員が減れば地域の声が届かなくなる」と主張します。

でも推してくれた地域だけが柏崎ではありません。議員がいない地域だって多々あります。

それに、もっと厳しいことを言えば、地域から推されて出た人だから地域の問題を解決できるわけではないと思うんです。(才覚とかタイミングとか、まあ色々)

なのでいっそ柏崎を4ブロックに分割して、その地域担当議員グループを決めてしまったらいかがでしょう?(なんなら議会報告会チームでもよいと思います)

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そうすれば「地域の声」は今よりもっと届きやすくなると思います。

それを1年ごとにローテーションすれば、4年間でどの議員も柏崎全体の課題を把握することができるし、市民もどの議員がどういった個性を持っているのかわかることでしょう。

これはほんの一例であって、議員定数を減らしても、議会・議員のあり方をそれに合うものに変えれば、今以上に市民の役に立てるのではないでしょうか。

これについては当事者として、しっかり訴えていきたいものです。

2018年7月21日 (土)

新庁舎と水害

再来年完成予定の新庁舎について、柏崎市に対し以下の問い合わせを行いました。

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いつも大変お世話になっております。
このたびの西日本豪雨災害を受けて、私を含む周辺の人達の間で新庁舎に対する不安が広がっています。

「柏崎市新庁舎建設基本計画(案)」に対するパブリックコメントでも、新庁舎が水害に耐えられるのかという不安の声があり、それらに対する回答は

「水害については、昭和53年の豪雨災害後の河川激甚災害対策特別緊急事業による鵜川の改修、さらに、塩込川や浜屋川の内水対策の柏崎雨水ポンプ場の完成により、柏崎駅周辺では、浸水は起きていません。
さらに、平成36年度竣工(しゅんこう)予定の鵜川ダムの完成によって、鵜川の治水対策がさらに強化され、100年に1回程度の降雨にも対応でき、よほどのことがない限り、浸水の心配はないものと考えています。
なお、新潟県の調査報告書に基づき市が作成した津波ハザードマップでは、津波による浸水は想定されていませんが、万一の際を考え、念のため、警戒が必要な区域として指定しています。
洪水・津波ハザードマップは、現在最新のデータをもとに作成されており、今後、国の想定に合わせて、県から新たな浸水想定が示された場合には、市のハザードマップも見直しを行うこととしています。
東京電力柏崎刈羽原子力発電所では、新規制基準に基づいて独自に津波を想定し、防潮堤を建設しておりますが、その基準を市全域に当てはめることは難しいと考えます。

(参考)柏崎雨水ポンプ場
計画処理排水量1,354立方メートル/分
排水区域は302ヘクタール(3.02?) 」

というものでした。

ですが鵜川ダム完成までの間に、西日本豪雨と同様の状況になったとき、柏崎雨水ポンプ場の機能だけで対応できるのでしょうか?

また新庁舎に災害対策本部を設置したとしても、そこに行くまでの道路が冠水する可能性も十分考えられます。
むしろ現庁舎の方が安全な位置にあり、本館を使えないとしても第二分館や教育分館の方が災害対策本部設置に相応しいのではないかと思います。
そういったことから、現庁舎跡(地)に防災機能を残すべきではないかと考えますが、いかがでしょうか?

そして洪水・津波ハザードマップについても国や県の浸水想定を待つまでもなく、今回の西日本豪雨と同様の1時間雨量を想定した場合の水害予測を行い、それに合わせた内容に変えるべきではないのでしょうか?

「よほどのこと」が現実として起こってしまっている以上、最悪の事態を想定しながら安全策を講じる必要があると感じます。市の方向性だけでも教えていただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。

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それに対する柏崎市の回答は

まずもって、このたびの西日本豪雨災害により、被災された方々に対し、心よりお見舞い申し上げます。
さて、近藤様よりいただきました問い合わせについて、次のとおり回答いたします。

まず、西日本豪雨と同様に大きな河川がはん濫した場合、新庁舎周辺の冠水が心配される中、新庁舎が災害対応の拠点として役割を果たせるのかということですが、ご指摘の柏崎雨水ポンプ場の機能だけでは新庁舎を含む駅周辺の排水は不可能です。
こうした中、現庁舎に災害対策機能を残すべきではないかということですが、市は災害対策の初動対応として、気象台が発表する警報などに注意しながら、道路等が冠水する前に職員が登庁し、迅速に災害対応ができるよう体制を整えています。これは、新庁舎に移転した場合でも、その体制に変更はありません。

また、新庁舎では、水害対策を考慮し庁舎1階の床レベルを上げるとともに、災害対策本部、防災行政無線室及び非常用発電室などを3階以上に整備します。
水害発生時においても、市民の皆様に必要な情報を発信するなど、防災拠点としてその機能を十分果たすことが可能であると考えております。新庁舎での防災対策にご理解をお願いします。
なお、現庁舎の利活用方法については、現時点では未定でありますが、市民の皆様からいただいたご意見を踏まえながら、引き続き検討してまいります。

次に、ハザードマップについてですが、昨年11月に津波浸水想定が、今年6月に洪水浸水想定が新たに新潟県から公表されました。
これは、日本海側最大規模の津波断層モデルや想定し得る最大規模の降雨状況が基準となっております。
これを受け、市では、それぞれのハザードマップの作成を開始しました。年内には市民の皆様に公表し、新年度において、新しくガイドブックを作成、配布する予定でおります。
防災・減災対策として、市は、施設整備を進めるとともに地域防災計画や災害対応マニュアルを新しい知見により修正し災害対応にあたっております。
一方で、行政だけでは災害対応に限界があることから、自助(自分の命は自分で守る)、共助(地域で助け合う)の推進に向け、ハザードマップなどの活用や自主防災組織と連携した情報共有など、平常時から防災意識の普及啓発や防災訓練の推進などソフト対策の充実にも努めてまいります。

 今後とも、市民の安全・安心の取組みについて、ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

柏崎市危機管理部 防災・原子力課

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つまり水害覚悟の新庁舎建設・・。
職員の皆さんは浸水被害覚悟で馳せ参じなければならないのですね。
(現実としてたどり着けるのかどうか)

取り急ぎの報告でした。

2018年4月28日 (土)

議会報告会

柏崎市議会では議会改革の一環として、「議会報告会」を開催しています。

定例会議のあと6~7人の市議会議員がチームを組んで、柏崎市内の中学校区ごとに開催するもので、前半は議会の報告・後半は住民との意見交換を行います。

毎回どこかしらの会場に参加していますが、地域が抱える課題がその地域だけで解決できない状況がうかがえます。

ある問題を抱えた地域の方が議会報告会に参加し、柏崎市ではどう対応しているのかたずねたところ、会場の議員からは「そんな問題があるのは知らなかった」と言われたそうで

「地元出身の議員さんに相談して、てっきり柏崎市の問題として認識されていると思っていたのでショックだった」

と後日お聞きしました。

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議会では「A議員が相談を受けた案件は、A議員からアクションがない限り、他の議員は手出ししない」という不文律のルールがあるように見受けられます。

A議員が自分の手には負えないと判断した場合、会派全体で対応したり、他の議員にバトンタッチすることもあるようですが、解決できないまま放置された挙句、相談した市民が「A議員に相談したけどダメだからB議員に相談した」というケースもあるようです・・。

いずれにせよ、市民の多くはどの議員が解決するかということよりも、「目の前の困りごとを何とかしてほしい」という気持ちが強いのではないでしょうか。

できるだけ議員さん同士が問題を共有し、協力しあいながら解決に取り組むような議会であってほしい、議会報告会はそういう機会にしていただきたい、というのが私個人の願いです。

2017年7月29日 (土)

柏崎市新庁舎建設基本設計

柏崎市新庁舎建設基本設計の市民説明会がありました。

昨年の説明会では1万4000㎡とされた延べ面積は1万㎡以下となり、全体的にコンパクトになるようです。

1Fには執務室の他、市民ロビーを設け、市民窓口、FM局、売店、そして議場を配置。
2Fには執務室と議会ゾーンを配置。
3Fは危機管理ゾーンとして、災害対策本部、災害対策室などを配置。
4Fには災害に備えて電気室や熱源機械室を配置。
地下はつくらず、1~2Fに吹き抜け空間を設けるとのことです。

デザインはシンプルで機能的なものとなり、昨年のワークショップで示された市民交流スペースはほとんどカットされていました。

また太陽光発電や地中熱も利用することになっています。

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現庁舎については、本庁舎部分(約1万5000㎡)は2023年度以降に取り壊し、教育分館と第二分館は片方または両方を残し、何らかの行政施設として使用するそうです。
今年の9月以降に住民説明会を開き、ワークショップ等で活用方法を検討するとのことでした。

以下は質疑応答です。

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〇新庁舎1Fテラス部分に雪が入り込む心配はないのか?

→構造上、雪が入り込みにくくなっている。

〇当初予算では70~75億円とされたが変わりはないか?

→規模縮小した分、もう少し安くなるはず。

〇市民交流スペースに使うとされた合併特例債はどうするのか?

→どの部分に使えるか、これから県と協議する。

〇新庁舎の場所は市の防災ハザードマップでは浸水地域になっている。豪雨による浸水被害があれば陸の孤島となるのではないか?

→標高4.06mに対し高さ4.3m(アルフォーレと同じ)に底上げする。

 今年7月3日の豪雨は柏崎市で観測史上3位の降雨量だったがポンプ場が機能し、新庁舎予定地の浸水は見られなかった。
 近くを流れる川の水位も岸から1mほど余裕があった。

〇常総市の新庁舎は大雨により浸水した。100年に一度、1000年に一度の豪雨災害も起こり得るのが昨今の状況だが、どう対応するのか?

→1000年に一度の豪雨ともなれば、新庁舎だけの問題ではなくまち全体の備えが必要。総合的に豪雨に備えるよう対策を講じたい。

〇延べ面積を当初よりも約3割カットしたのだから、建設費用も同じくらいカットすべきだ。

→コンパクトにしたとはいえ、基本的な共有機能は変わらないので、単純に面積と費用が正比例するわけではない。
ただし貴重な血税を使う事業であるので、無駄なものは作らず、少しでも費用を抑えられるよう努力したい。

〇設計上では防風林を植栽することになっているが、大雪が降ればその下の駐車場は使えなくなる。維持管理費のことも考えれば壁の方がよいのではないか?

→貴重なご意見として参考にさせていただく。

〇FM局は災害時には防災情報拠点となるはずだが、1F配置でよいのか?もしもの時に水没されては困る。

→緊急時に備えてFM局のアンテナはNTT建屋に設置する予定。また3Fの危機管理ゾーンでも放送できる。

〇緊急時や災害時に備えてヘリポートを庁舎に設置する考えはないか?

→ヘリポート設置は考えていないが、アルフォーレ駐車場などの利用も含め、全市的に考えていきたい。また他市町村とも連携したい。

〇吹き抜け空間をつくるということだが、市民ロビーも天井レスか?

→市民が利用するスペースはできるだけ天井を張らず、広く豊かな空間を演出したい。

〇車いす用のトイレはあるのか?

→1Fに2カ所、2~4Fに1カ所設置する予定。

〇ワークショップでは5街区の商業地区についても設計業者が提案していくと聞いたが、その後どうなったのか?

→5街区についてはまだ計画はない。

〇設計においてどのような点に「柏崎らしさ」が出ているのか?

→優しさ、温かみ、質実剛健で、派手さはないが芯はしっかりしている、というのが「柏崎らしさ」だと感じている。
 そういったイメージに合わせた内部空間をデザインし、資材にも木材を用いたりしながら、奇をてらわず簡素な設計にまとめている。

〇ランニングコストを現庁舎と比較するとどうなのか。自然エネルギーを利用するというが、本当に環境にやさしいのか?

→現庁舎でのランニングコスト(光熱水道費の他、除雪や冬囲い費用も含む)は約1億3,000万円だが、新庁舎では80%以下になる見込み。

〇現庁舎の跡地利用にもスピード感が必要。新庁舎への移転後からではあまりにも遅いのではないか。

→新庁舎に移ったあとも地中の杭の撤去作業などがあり、すぐには壊せない。費用の問題がある(市にはお金がない)。
 活用方法については庁舎内での方向性はまとまりつつあるが、まずは現状や展望を周辺住民・市民の皆さんに示す必要がある。
 9月以降に急ピッチで進めたい。

〇現庁舎は緊急時の避難場所になるはずだが、駅周辺の防災計画も見直してもらいたい。ハザードマップによる指定避難場所も不備が多い。

→市全体の防災計画についてはこの場で言及はできないが、新庁舎については災害時でも、業務を継続することを可能にする機能と体制を整備する。
 また市民の個人情報データも今年度中に市外での保管を完了。

〇地中熱はどう利用するのか?そもそも新庁舎周辺の土地には問題あるのではないか。

→現在、どのように地中熱を活用するのか調査中。

〇柏崎の風、特に北西風は非常に強い。車いす用駐車スペースがその位置にあるが、構造物で風を防ぐような対応が必要ではないか?

→貴重なご意見として参考にさせていただき、駐車場の風防についても努力したい。

〇新庁舎の床面積がかなり現庁舎よりも減るわけだが、現在の庁舎機能は維持できるのか?

→新庁舎は可能な限りコンパクトに抑えた。市の人口減少に合わせて職員数も減っていくことになるので、現庁舎と同じ広さを必要としない。
 ただし市民サービスは低下させない。来庁する市民に不便さを与えない人員は確保する。
 現在の3つの館には文書庫も含まれている。永年保存の文書庫は、危機管理の点から新庁舎でなく別の場所に設ける。

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最後に桜井市長から、現在の庁舎で試行的に「コンシェルジェ」を置いているとのお話しがありました。
窓口に職員が出向いて、関係部署まで来庁者(高齢者など)を案内するのだそうです。
市民でなく職員が歩く市役所を目指したい、とのことでした。

これからも市民のひとりとして、注視していきたいと思います。

2017年4月 2日 (日)

女性の働き方 茶話会

本日、企画・運営に関わった「女性の働き方 茶話会」を実施いたしました。

参加者は35名。マイクを使わない座談会「自民党ふるさと対話集会」の上限です。

主催者の細田健一衆議院議員のご挨拶のあと、ゲストの宮川典子衆議院議員より、ふるさと対話集会の趣旨や、働き方改革についてお話しいただき、そのあとは参加者全員よりご意見をいただきました。その内容は

<提案・要望>
○子供を一時的に預かってもらえる場所があるとよい
○「ちょっとだけ働ける」仕組みがあればよい
○必要性の高い政策はスピーディーに決定してほしい
○在宅ワーク(個人事業)のアピール支援があるとよい
○中小企業、零細企業は働き方改革を行う余裕がない~経済活性化が必要
○個人事業主の会計処理などバックヤード支援があるとよい
○主婦も大切な仕事である
○男女ともに意識改革を~父親の職場に託児所あってもよい
○不妊治療への理解と支援が働き方改革にも必要
○再就職のための資格取得に助成があるとよい
○働き方改革について企業の理解推進
〇看護師、介護士不足をなんとかしてほしい
〇病院等の配置基準に労務管理者を入れてほしい

<実践紹介>
○ファミリーサポートの活用~いずれ自分もサポーターに
○金曜日に15~20分早く仕事を終える取り組み実施中
○仕事中に中抜けしやすいお洒落な制服を取り入れている
○地域の協力・支援が鍵となる(昔は近所の人達の助けを得て子育てしていた)

・・等々、おひとりおひとりの経験に基づく多彩かつ貴重なものでした。

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細田先生からは、今日の内容を政治活動に生かすとともに、家庭人としても意識改革を実践したい、との決意表明をいただきました。

そして宮川先生からは、全員の声を聞いた初の対話集会であったこと、地方での努力が大都市の働き方より先進的であること、既成概念や古い体質を打破して、真の働き方改革・女性が輝く社会を実現させていきたい、との力強いお言葉をいただきました。

お二人の先生方をはじめ、ご参加・ご協力いただいた皆様のおかげで、本当に実のある会となりました。

心から御礼申し上げますm(_ _)m

2017年3月26日 (日)

日本の出番、祖国は甦る

自民党新潟県連合同大会の記念講演

「日本の出番、祖国は甦る」を拝聴しました。

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講師は独立総合研究所 http://www.dokken.co.jp/index_jp.php 元代表で、参議院議員の青山繁晴先生。http://www.shiaoyama.com/essay/ 

満員となった会場で、ひとりひとりに語りかけるような、熱い熱いご講演でした。

内容は
○メタンハイドレート調査研究と実用化について
○拉致問題とブルーリボンの意味
○憲法改正がなぜ必要か
○今、政治家に求められるもの~草莽崛起 

等々、多岐に渡るお話でしたが、根底ではすべてつながっていると感じました。

たとえばメタンハイドレート。
青山先生が奥様(青山千春博士・東京海洋大学准教授)とご一緒に、私財を投じて調査研究を進めてこられた新たな資源が、いま実用化を目の前にしています。

国民の支え、そして政治家の決断があれば、東京五輪大会がある2020年、メタンハイドレートを燃料とするバスを新潟市内に走らせることが可能となるそうです。

印象的だったのは次の言葉でした。
「もう日本は資源のない国ではない」

日本はかつて資源がないことに起因して第二次世界大戦に参戦し、敗北しました。
そして戦勝国が作った草案からなる憲法により、自国民を守る為に戦うことが困難な国となりました。

だから北朝鮮に100人以上の国民が40年以上拉致されたままでも、日本は助けに行くことができません。
そんな北朝鮮は、日に日に精度の上がっているミサイルの照準を日本に向けています。
仮に日本に向けて発射されたら、自衛隊が撃ち落としたとしても、被害は免れられないそうです。
けれどやはり現在の憲法では、ミサイル発射の本拠地を封じることができません。

第二次世界大戦後の世界では、戦争を回避するための方法は「抑止力」・・他国から手出しされないだけの武力を持つことです。

つまり「手出しされたら戦って抵抗する」という姿勢を見せることで、手を出せないようにする・・これが現実の自衛手段です。

抑止力が不十分な日本が、それでも平和を保ってきたのは、これまで戦勝国アメリカが世界の警察として、秩序を守ってきたからでした。

しかし戦後70年を経て時代は変わり、アメリカが世界の警察であることをやめた今、日本は自力で国を守らなければなりません。

現代の戦争は「資源・食糧・水」の為に引き起こされます。

エネルギー資源の海外依存度が高ければ、国際情勢に影響されますし、多額の費用が海外流出すれば国家財政も疲弊します。

だからこそ自国の資源開発は必要ですが、それはそれで他国から狙われます。

純度100%のメタンハイドレートが眠る日本海、おいしい食物、きれいな水をもつ新潟も、十分他国のターゲットになり得ます。

つまり今の日本は切迫した状況にあり、平和を保つ為にこそ、憲法改正は必要だと理解できました。

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こうしたお話の一方で、奥様・千春博士とのエピソードもまた、苦難を乗り越え、道を切り開いたひとりの女性の物語として感動的でした。

メタンハイドレートの権威である千春博士は、お父様が帝国海軍・軍楽隊に所属していた誇り高い船乗りでした。
そのため千春さんも船乗りになることを望み、まだ女性が船に乗るなど考えられなかった時代、多くの大学に拒絶される中、唯一認めてくれた東京水産大学(現在教鞭をとる東京海洋大学)に入学、船上の人となったそうです。
危険を顧みず果敢な挑戦を続けたその志は、常に「祖国・日本の為」にありました。

そんな千春さんを理解し、支え続けたご主人・青山先生も、本当に素晴らしい男性だと思います。
「女性が輝く社会」の礎となったご夫妻の物語は、いつかドラマにならないかなあ・・と期待しています。

青山先生が参議院議員に出馬するとき、「議員歳費を返上する」と表明し、話題になりました。
でも実際に議員になると、歳費返上は憲法違反であり、寄付行為にもあたるため、できませんでした。
その代わり議員になってから一切の献金を受け付けず、政治資金パーティーのようなものも行わず、独立・是々非々を貫いているそうです。

先生はこう言われました。

「もともと僕らは報われない。たとえ僕らの代で結果が出せず土に還るとしても、祖国の為に力を尽くす。」

今の日本が置かれているのは、幕末に匹敵する危機的状況。
幕末の志士たちが、命・金・地位・虚名を捨てて祖国のために身を捧げたように、今の国会議員もそうでなければならないと・・。

そして今こそ草莽崛起(そうもうくっき)=在野にいる人々、新潟に住む私達が立ち上がる時が来たのだと、力強いメッセージをいただきました。

強い覚悟をもって、日本の為に日夜ご尽力されている青山先生の熱いお言葉に、何度も涙し、心が震えた2時間でした。

私も日本人として、祖国の為に自分ができることをしていきたいなあと、しみじみと感じています。

素晴らしい講演会を実現してくださった自民党新潟県連青年部局および関係者の皆様、本当にありがとうございました。

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