11月19日、北朝鮮の拉致被害者であった蓮池薫氏の講演会に参加しました。(主催:柏崎地域国際化協会)
以下はその内容メモです。
「北朝鮮を取り巻く情勢と拉致問題解決への道」
1.北朝鮮の現状
北朝鮮は三重苦を背負い、厳しい状況にある。
【三重苦その1:度重なる水害】
北朝鮮では治水対策がなされていない。全国的に水害が発生。
河川のすぐ近くに集合住宅が建設され、堤防がないため河川氾濫により洪水被害を受ける。
メディアには緊急復旧した地域だけを映すが、実際には「地元まかせ」のため復旧が進んでいない。
農作物も被害を受け、稲穂はやせ細り、まともな米が収穫できない。その結果、食糧難に。
住宅建設や修繕は機材を使わず人力で行うため、家屋は見た目だけ。
集合住宅の付近には電線・電柱がない。つまり電気が使えないライフラインのない住宅が並ぶ。
金正恩委員長は見栄を張っているが、実質的に洪水から国民を守り生活を改善する様子がまったく見えない。
【三重苦その2:新型コロナウイルス感染症】
北朝鮮では中国に行き来する人が多い(密輸、親戚訪問など)。
中国との国境線から1~2km以内の緩衝地帯に軍隊を派遣。
事前通告なしに人も獣に射殺すると布告。
=中国との国境を徹底的に封鎖
少し前に韓国公務員が北朝鮮訪問し射殺された。
すべては新型コロナウイルスを恐れての行為。
●具体的な新型コロナウイルス対策
発熱者は風邪だとしても20日間強制隔離し、近隣の16世帯をまるごと封鎖。
動けないよう24時間監視する。
経済活動は二の次、三の次。
20日間の隔離中、食料としてトウモロコシをひとり10㎏配給。
当然それだけでは足りず、隔離中に痩せこけてしまう。
PCR検査はピョンヤン以外は行われない。
疑わしきは「症状疑惑者」として監視する。
経済活動を封じる。
10/22~29の症状疑惑者 完全隔離174名
累積では
隔離総数 32182人
PCR検査 12072人 陽性者0人としている。
【三重苦その3:経済活動の低迷】
コロナ封鎖が住民を直撃。
国内に400~500ある「市場」では、13~16歳のコッチェビ(物乞い)が大勢いる。
失業者も多く、仕事がないため農場の肥料盗難が相次ぐ。
肥料は貨車に直接積んで運ぶ。泥棒は隙を見てそれを盗み市場で売る(仲買人→農家へ)
それもできない人は芋とビニール袋を持って山に行き、ビニール袋でテントを張り、芋を食べながら生き延びる。
売春も増えている。
労働者39世帯/69世帯 極貧状態。
孤児院を大量につくったが食べ物がなく子ども達は逃亡。
国家統制のため労働者は全員国営企業で働かせるが、コロナ禍により7割に落ちた。
給料もらえない人が66%。ただ職場に行くだけ。
金正恩委員長も失敗を認めざるを得なくなり、8月に「言い訳」
→来年1月に第8回党大会を行い、新しい戦略で国の経済を立て直すと宣言。
軍事パレードを前に感極まって泣き出す。
「努力と真心足りず生活苦しく申し訳ない。それにも関わらず私を信じてくれてありがたい」
今後、第8回党大会で方針をつくり成果を上げると宣言。
来年1月の党大会に発表される5か年計画次第で、拉致問題も大きく状況が変わる。
5か年計画に日本の存在感を刷り込めるかどうかがポイント。
以上の現状を踏まえ、政府には一環して「今」がチャンスだと伝えてきた。
拉致問題解決のためのメッセージを送るべき。
日本を北朝鮮によって重要な国として位置付ければ拉致問題解決の道は開かれる。
北朝鮮は三重苦による厳しい状況の中で、色々な国に頼らざるを得ない。
日本がそこに関われるかどうかが鍵となる。
2、拉致問題はいかにして起きたか。
1970年代~日本を含めて拉致開始。
金正日委員長による党実験。秘密工作部署を牛耳る(拉致組織も含む)。
日本からは政府認定17人を拉致。
秘密工作であり北朝鮮は「ばれるはずがない」と思っていた。
なぜ暴露されたか?拉致に直接関与された工作員および協力者が石川県で逮捕された。
辛光洙(シンガンス)=地村さん拉致実行犯。
よど号事件の女性も関与していることが判明。
1987年、大韓航空機爆破事件の実行犯・金賢姫の教育係が拉致された日本人であったことも判明。
(→田口八重子さん)
徐々に北朝鮮による拉致が明らかに。
1997年、日本の出版物に北朝鮮関与を疑う内容が掲載された(北朝鮮で読んだ)
ジャーナリストの石高健次氏による記事。
「北朝鮮の工作員により日本の幼い少女(双子のひとり)が拉致された」=横田めぐみさん(弟が双子)。
新潟県警が過去に13歳の少女が行方不明になった事件との結びつきに気付く。
それまでも拉致の疑いはあった。実名を出して動かそうということになり、横田さんご夫妻を中心に家族会(拉致被害者家族連絡会)が結成される。
北朝鮮は過剰に反応。福井県小浜市で開かれた小さな集会を北朝鮮労働新聞で大々的に報道。「拉致=でっちあげ」
北朝鮮の人々は記事を我々拉致被害者の目に触れさせたくなかった。新聞記事のことを隠そうとしていた。
この様子から敏感に反応していると感じた。
2002年、小泉総理が平壌(ピョンヤン)訪問
水面下での交渉で日本側から拉致被害者13名リストが渡された。
北は知らないと突っぱねているが、だんだん「調査する」に変わった。
小泉訪朝で拉致を認める。
背景には経済的困窮により日本から資金を手に入れたいとの狙いがあった。
韓国は植民地支配の補償金をもらったが、北朝鮮はもらっていない。同じように日本から補償金1兆円をもらおうとしていた。
保証金は国交正常化が条件。日本の条件が「拉致問題の解決」。
しかし北の回答は13人に対して4人生存、残りは死亡。
日本側は死亡だけでは受け入れられないと表明したが、私もこれは受け入れられないと思った。
横田めぐみさんが私達もあわせて3家族一緒に暮らしていた時期を「自殺した時期」として発表。
増元るみ子さん、市川修一さんも拉致された後に結婚したが、どちらも亡くなり、土葬されたが墓は洪水で流されたと報告。
しかし死亡したとされる時期、やはり一緒に暮らしていた。
報告では8人中6人は遺骨がなく、洪水で流されたとされたが、北朝鮮の墓は山の尾根=いちばん高いところにつくる。
私も墓を掘らされたことあるので、洪水で流されるなど考えられない。
その後、死亡の証拠として提出された遺骨は火葬されたものだった。
DNA鑑定では土葬されたものなら精度高い=DNA鑑定の精度を下げるための加工。
2004年、北朝鮮は突然、横田めぐみさんの遺骨が存在し、夫が自宅で保管していたと発表。
めぐみさんの夫は韓国の拉致被害者で一緒に暮らしたもある。
めぐみさんは1993~1994年の間に亡くなり土葬されたが、夫が妻の遺骨を手元に置くためにそれを掘り起こして火葬したと。
それはすべて嘘。そもそも北朝鮮に火葬施設はない。
夫もすぐに再婚しているので、自宅に遺骨を隠していたというのは嘘・つくり話。
DNA鑑定は、日本では火葬したものでも可能。
私も遺骨が出された経緯が作り話だと証言できる。家族が信じられないのは当然。
●なぜ拉致問題が動かなかったのか。
平壌宣言3原則は「核・ミサイル・拉致」解決すれば過去の清算を行うとの内容。
当時はアメリカとの95年枠組み合意が生きていた。
拉致問題解決さえうまく進めば国交正常化がうまく進んだが、北朝鮮が真実を隠し破綻。
その後、2006年~北朝鮮は核実験を始めた。現在までに6回行う。
ミサイルも数えきれないほど打ち出す。
拉致問題さえ解決すれば1兆円渡せるのかといえば「無理」
アメリカと北朝鮮の関係性が進まない限り、日本とだけ国交正常化できない。
米朝の動きを見守るのが日本の立ち位置。
私はトランプ大統領との会談に期待していた。
米朝非核化は実現すれば次は拉致問題に進める。
うまく交渉してほしいと願っていたが、昨年、米朝協議は破綻した。大きく失望している。
バイデン大統領になればどうなる?はっきり言って期待できない。
トランプの対・北朝鮮戦略ととバイデンはまったく違う。
バイデンは周りから固めるボトムアップタイプなので、95年枠組み合意の原則を守り、事態は1~2年動かないのが見えている。
日本はその間、米朝の動きを見守るしかないのか?とんでもない。
米朝の動きだけを見ていては、横田早紀江さん、有本さんの存命中に解決できない。
核、ミサイルを置いておき、その前に何とかできないか?
北との直接対話は今、何ができるか。拉致被害者を返してもらうために、交渉により解決の道を開くべき。
11月15日の新潟県民集会で、加藤官房長官が「現在、北朝鮮と直接交渉している」と演説。
なんとか突破口が開かれることを期待。
アメリカを通して拉致啓発の意識付けは可能だが 何とかするのは我々日本。
さらにもうひとつ、中国の力を利用すべき。
中国は日本に秋波を送っている。
これまでのように日本はアメリカ一辺倒でやっていけるのか?
北朝鮮は95%中国貿易依存、加えて密輸も。
日本は中国を利用しない手はない。
3、拉致されてからの日々
24年間の拉致生活を振り返る。
拉致の実行犯は北朝鮮の調査部=スパイ活動の中心組織。
党中央の党機関部署であり、金正日が直接牛耳っていた。
拉致の目的はスパイ活動に利用する為。
世界から若者をつれてきてスパイとして教育。
アメリカにはヨーロッパ系、アジアは日本人。
外国人スパイ利用の背景。
それまで北朝鮮の若い人間に対し、強制的にスパイ教育を行ってきた。(金正日政治軍事大学で特殊訓練)
品定めし、選抜して工作員を養成したものの、国内教育だけではうまくいかなかった。
整形しても言語等の問題で結局は失敗。
「だったら外国人を連れてきて教育すればいい。脅し、すかし、なだめれば言うことを聞く。結婚させて家族や子供を人質にとればいい。」
過去のゾルゲ事件などを通してスパイの役割に期待。
1978年6~8月 世界各国に調査部工作員が派遣された。
日本には時期をずらして潜入。
主導した工作員は全員違う。
たとえば福井の地村さんはシン・ガンスだが、柏崎の工作員はチェ・スンツル他。
1978年、ぎおん祭り花火大会の前後に戦闘員(作戦部に属する。人間サイボーグのように屈強な若者達。)が祭りの混乱に乗じて上陸。
船は日本の漁船そっくりに仕立てていた。
野宿や民宿をしながら潜伏。夕方になると中央海岸に行き、若い人達を物色。
7月末は夕方に人が多く出ている。人の目が多い時には実行できない。
拉致されたその日、家内(祐木子さん)とは喫茶店で待ち合わせをしていた。
前の日に電話で約束したので、誰もデートすることは知らなかったし、海に行くことも知らなかったはず。
歩いて市営プールと野球場の間、通称「アベック道路」=松林の土手を通り海岸に出た。
人が多いと感じた。酒を飲んでいるおじさん達もいて、いやだなと感じた。
寺泊方面に向かって土手を歩いていた。他にも何人か歩いている気配はあった。
彼らと250mほど離れていた。海岸に座って家内と話していると、波打際から男(工作員チェ・スンツル)が現れた。
実は彼は大阪生まれ。終戦後、韓国へ渡り、5年間の貧しい生活の後、朝鮮戦争で北朝鮮側についた。
終戦から3年後には対日工作員となっており、日本語は完璧。
私がたばこを吸っていると、「火を貸してくれ」と声をかけられ、ライターを貸す寸前に襲われた。
顔面を殴られ、暴れたが物陰に引きずられた。
彼らは逮捕されそうになれば自決しなければならない。彼らも必死だった。
「静かにしなさい、静かにしなさい」と片言の日本語が聞こえ、外国の人間にさらわれると思った。
何らかの信号が沖の船に送られ、ボート(日本製)が海岸につけられた。
2人とも袋詰めにされた。(後に高岡での拉致未遂事件に使われたものと同じ道具だと知った。)
ボートに乗せられ、窒息しそうになり、顔だけ出された。
野球場が遠くなっていくのが今も記憶に残る。その後、船に乗せられ、工作員から薬を飲まされ、注射された(睡眠剤)。
気付くと北朝鮮に着いていた。おそらく2晩眠っていたと思う。
清津(チョンジン)=根拠地(秘密連絡所)に上陸した。
両脇を抱えて車に乗せられ、高台のアジトに連れていかれた。
真っ暗なアジトで中年男がニコニコしながら「ようこそ。ここは北朝鮮人民共和国だ」と言われた。
ここで10日間過ごしたが、恐怖の連続だった。
「なぜこんなことをするのか」と聞いても答えは「我々は知らない。平壌に聞け。」
「彼女はどうしたんだ」と聞いても答えは「ピョンヤンに聞け。」
そのうち殴られた顔の腫れを抑えるためだと、ゆで卵を押し付けられた。
14時間、列車に乗って平壌駅に到着後、車に乗せられ山の「招待所」へ連れて行かれた。
秘密工作機関のアジトを「招待所」と呼ぶ(中国も同様)。
拉致したのは調査部であり、招待所地区は7つ。すべて山の中にあり鉄条網で囲まれている。
山の奥深いところに家が隠れるように建てられ、私が連れて行かれた所には14~15の建物があった。
ここには女性がひとりずつ配置され、工作員候補食事の世話や洗濯など、生活の面倒を見ていた。
指導員が寝食を共にしながら工作員として教育し、終了後は金正日の命令が下る。これが招待所の役割。
招待所の幹部になぜこんなことをするのか聞くと、「君を革命家にする」と言われ、恐怖を感じた。
「彼女(祐木子さん)はどうした?」と聞くと「あのあと日本に帰した。心配するな。」と言われ、もう会えないのかと思い落胆した。
工作員教育とは将来のスパイ教育で、実務よりも思想を植え付けることが中心だった。
北朝鮮の教育は金正日主席への忠誠心であり「いかなるときも秘密を守り、いざという時は自決する覚悟」
主席の美談が書かれた文章を読み、感想文を書かされる。「チュチェ思想」と呼ばれる北朝鮮の指導方針だった。
私は嫌で嫌で仕方なかった。
あるとき嫌だというと、最初はなだめられたが、嫌だと言い続けると高圧的な態度に変わり、殺されるかと思った。
めぐみさんもなだめられた。
「早く朝鮮語を覚えれば、家に帰してもらえるかもしれない」と言われ、必死に勉強したが未だに帰れない。
嫌々ながら勉強する日々が1年続いたが、ある日突然、教育が中止され、平壌から遠い場所に移された。
そこで課長(指導部の幹部)から突然「結婚するか?お前の彼女(祐木子さん)は北朝鮮にいる。」と言われた。
驚いたが、少しそんな予感(彼女も北朝鮮にいる)もあった。
即座に「結婚させてくれ。」と答えると、2~3日後に別の場所に連れて行かれ、彼女と再会した。
後に聞くと彼女も同じような対応だったという。
再会して1週間後に結婚した。
招待所の食堂で、幹部10人くらいの前で北朝鮮式での結婚式を挙げた。
監視付きで平壌市内を1周し、「革命遺跡」金日成像の前で写真撮影したのが新婚旅行だった。
それから新婚生活が始まったが「余計なことは喋るな」と言われ、常に監視付きだった。
北朝鮮での24年間のうち、3回転機があった。第一の転機が「レバノン女性拉致事件」。
なぜ私達が結婚できたのか、それは「レバノン女性拉致事件」が発端だった。
当時、レバノン人の女性5名が拉致された。
彼女たちは秘書の勉強をしていたが、「日本の商社がレバノンとの交易の為に採用したい」と騙され、平壌に連れて行かれた。
分散して北での教育が始まったが、そのうち2名はスパイの素質を見出された。本人たちも覚悟を決めたようだった。
北朝鮮ではどこにいても監視され、逃げられる気がしない。
2人はスパイ教育を受け入れたが、それは海外逃亡のチャンスを狙ってのことだった。
1年後、スパイとして海外への渡航命令が下った。
まさにチャンス到来。監視指導員をだまし、そのままレバノン大使館に逃げ込んだ。
レバノンでは水面下での交渉の末、残り3人も奪還した。
この事件により北朝鮮による拉致は世界に知れ渡った。
金正日は拉致した人間を信じられなくなり、いったん教育をストップした。
大使館に逃げ込まないように平壌から遠い場所へ移し、結婚させて逃げられないようにした。
ひとりで拉致された人も結婚させた。(曽我ひとみさんとジェンキンスさんのようなケース)
その後、工作員への日本語教育をさせられた。子供も生まれ、拒否できない状況だった。
招待所に通ってくる工作員に日本語を教えるのが役目だった。
第二の転機は1981年11月の大韓航空機爆破事件だった。
実行犯2名はバーレーンまで行ったが逃げられず、服毒自殺をはかった。
生き残った実行犯の金賢姫は、平壌外国語大学で日本語を専攻したスパイだった。
彼女の証言から教育者は子どもを置いて拉致された日本人=田口八重子さんであることが判明。
警察が田口さんの写真を見せたときに、教育者と一致した。
この事件によって、工作員への教育は中止され、その後は帰国するまで翻訳業務に専念した。
第三の転機は1990年。89年にベルリンの壁崩壊により、ソ連も変化を余儀なくされた。
ソ連は新外交政策により韓国と国交を結んだ。
韓国と対立してきた北朝鮮はソ連に裏切られたと感じ、孤立化から逃れるため日本との関係改善を図ることにした。
1990年9月に、訪朝した金丸元副総理と社会党の田辺誠委員長が、朝鮮労働党との間で、日朝国交正常化に向けた政府間交渉を促す3党共同宣言に署名した。
金正日は国交正常化に伴い過去の清算を求めたが、日本およびアメリカの反応は悪く、国交正常化会談の雲行きは怪しくなってきた。
正常化会談8回目にしてはじめて拉致問題を正式に提起したが、大韓航空機爆破の実行犯が明らかになったことを受けて会談は決裂した。
しかしこれが布石となる。
1998年に韓国の金大沖大統領がノーベル平和賞を受賞したことを機に、北朝鮮は「過去の清算=500億円」を求めて再び日本との交渉を開始。
2002年3月、北朝鮮労働党幹部から「わが党は決断した。これから日本と関係改善する為に一役買ってくれ。必要に応じて日本人に会い、幸せに暮らしているとアピールせよ。」と言われた。
北朝鮮は拉致被害者を日本に帰す気はなかった。
「拉致されたと言うな。北朝鮮の船に救われたことにしろ。」と言われた。
そのストーリーは
「モーターボートに乗っていたらエンジンが壊れ、漂流しているところを北朝鮮の船に救われた。北朝鮮の病院で治療を受け、自分から懇願して北朝鮮に残った」
というもので、日本人は信じるはずはないと言ったが、「同じ話を繰り返せば相手は信じる」と言われた。
その年の6月に平壌に引っ越した。
日本の家族が北朝鮮に来た時に会うためであり、「幸せをアピール」するためだった。
そして9月17日、小泉総理が訪朝。
その時、朝からホテルの一室にて待たされた。盗聴器が仕掛けられた部屋だった。
日本の外務省職員2名が訪れ「本人確認のために来た」と言われた。
「小学校の同級生の名前を全員書け」と言われたが、すべて覚えていたので書いた。
家の周りの風景、庭には当時どんな木があったかも絵に描いた。
帰国して両親にその絵を見せたところ「間違いない」。
外務省は事前に13名のリストを持って行き、そこで確認すればよかったのに持って来なかった。
拉致被害者が生きていると知って、リストを取りに戻った。
翌年2月28日、日本から調査団が来て、亡くなった拉致被害者8名についても我々にも聞きにくることなった、と言われた。
金正日は2日前に拉致を認めて謝罪した。ただし自分は関与していないとも。
10月に入り、「日本から家族は来ない。日本側は、まずは拉致被害者を返せと言ってきた。」と告げられた。
「日本では何も喋るな。幸せそうに見せかけ1週間で帰ってこい。」と言われた。
それまで自分の身に起こっていることに実感が沸かなかったが、日本行きの飛行機が離陸した時ようやく実感が沸いた。
飛行機に乗って上空から日本列島をはじめて見た。これが日本だと感じた。
日本に着いて飛行機から降り、テレビカメラの多さに驚いた。
そこから家族間でのバトルがはじまった。
家族は帰るなと言うが、子どもを残してきたから帰るしかない。その間、色々な話を聞いた。
そのとき、北朝鮮は弱い立場にあって慌てていると感じた。
日本政府からは残れとは言わなかったが、「日本に残るなら全力を挙げて北朝鮮の家族を取り戻す。」と言われた。
自分はもう北朝鮮に戻りたくなかった。家内は子供たちのことを思い反対したが、残ることを決断した。
それから半年たっても子どもを取り戻せず、落ち込んだ。
「帰って来れなかったらどうしよう?」と口にした時、母から叱咤された。
「たった1年くらいで何を言っているのだ。自分は24年待った」と。
そして小泉総理が2度目の訪朝。しかし帰ってきたのは自分たちの子供だけ。他の拉致被害者が帰国できず落胆した。
市役所職員から「小泉総理へのお礼はないのか、との声がある」と聞かされ、記者会見の冒頭で謝辞を述べた。
その後、まだ誰も帰って来ないことに心が痛む。例え私が北朝鮮に行っても取り戻せない。
日本政府は動いている。
北朝鮮は困難な状況にあり、プレッシャーをかけられている。
日本国民はいつまでも忘れない。
たとえ親御さんが亡くなっても絶対にあきらめないが、親御さんの存命中に帰さなかったら恨んでやる!
との姿勢を示し続けることが大切。
北朝鮮とは国交を結び、「過去の清算」はしなければならない。そうすれば解決するはず。
しかし、なかなか状況は動かないのがもどかしい。
今日ご来場の皆さんにも、拉致問題解決を求め続けていただきたい。
(以上)
柏崎日報2020.11.20記事
新潟日報2020.11.21記事
拉致問題の実態および核心に触れる内容の講演でした。
拉致という人権侵害・国家犯罪が、政治的事情に翻弄された挙句、交渉カードになってしまっていることが、解決に至らない要因だと感じます。
残されたご家族とご本人の為にも、また日本の威信をかけても、国民のひとりとして、また政治に携わる者として「必ず取り戻す」意思を示し続けていきたいものです。
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