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2019年9月14日 (土)

曽我ひとみさん講演会

本日9月14日、曽我ひとみさん講演会(柏崎市主催)に参加しました。

曽我さんは昭和53年(1978年)に母ミヨシさんとともに北朝鮮に拉致され、24年もの間、ご家族と離れ離れでの生活を余儀なくされました。
この間、チャールズ:ジェンキンス氏とご結婚され、2人のお子様に恵まれました。
2002年10月に日本に帰国を果たすことができ、2年後にはご主人と二人のお子様が日本へ帰国されたものの、母ミヨシさんとの再会はいまだ果たせていません。
現在ミヨシさんは87歳。他の11人の拉致被害者とともに、一刻も早い救出を願い、政府への要望や講演活動を行っていらっしゃいます。

以下はその内容です。

<柏崎市の拉致問題取り組み>

平成14年、小浜・佐渡・柏崎 拉致被害者関係市連絡会をつくり、政府に拉致問題全面解決のぞむ要望書を毎年提出している。
拉致を知らない若い世代も増え、拉致問題の風化が懸念される。
拉致被害者がいることが「遠い国の話」にならないよう、若年者への啓発として、蓮池薫さんに中学生への講話をお願いしている。
「知らない」ことが解決の障害にならないよう、また解決のために行動するきっかけになるよう、本日の講演会を企画した。

 

<櫻井市長より>

曽我さんは43年前に拉致され、何気ない日常、家族との生活ができない年月を過ごされた。
何気ない日常生活を送れることに喜び、ありがたさを感じていただきたい。
また曽我さんの想いを共有し、より多くの方々に伝えていただきたい。
尚、今回の講演会は、蓮池薫さん・由紀子さんご夫妻が佐渡に訪れた折、曽我さんとお話して、ぜひ柏崎へお越しいただきたいということで実現した。
蓮池さんのご両親も会場には見えられている。
親と子がお互いを思い合う気持ちを共有していただきたい。

Photo_20190914181401

<曽我ひとみさん>

今年は私が帰国して17年目、拉致されてから43年目となる。
昭和に拉致され、平成に帰国できたことは、私にとっては幸運だった。
しかし昭和に起きた拉致事件が、3つの年号をまたがっても解決できないのはなぜ?

24年間、北朝鮮で過ごした私だからこそ言えることがある。

過酷な環境で、耐えることが限界に達している苦しさを想像していただきたい。
拉致された当時は20代前後の若者は、今は老齢期を迎え、孫やひ孫がいるかもしれない。

北挑戦で新たな家庭を築き、家族のかたちが確立されていれば、今さら日本に帰って自分の居場所はあるのだろか?と悩みを抱える人もいるかもしれない。それだけ流れた時間は長すぎた。

幸い私たち帰国した5人の子ども達は当時は学生で、さまざまな支援を受けて今は社会生活ができている。
だが、あまりにも長い時間が経っているにも関わらず、全員帰国できない。

北朝鮮の時間稼ぎによって、拉致被害者は日本に帰ることに不安を感じているかもしれない。
拉致被害者家族の高齢化、拉致問題の風化に、私自身も不安を抱いている。
だからこそ1日も早い解決を望む。

私が体験したこと、母のことを聞いていただきたい。
昭和63年8月12日、夜7時過ぎのこと。
当時の私は佐渡総合病院で准看護師として働き、週末は実家に帰って疲れを癒すのが常だった。
その日も実家に帰り、母はいつも通り仕事に行き、帰宅後は食事をつくって家族と過ごしていた。
翌日はお盆で、母はお供え物のお赤飯を準備していたが、足りないものに気付き、買い物に出ることにした。
二人で近所の雑貨屋へ行った。家から400~500mの距離の、同じ集落内の雑貨屋だった。
買い物をすませ、店を出てたわいもない話をしながら歩いていると、後ろから足音が聴こえた。
急ぐ風ではないものの、足音の間隔が徐々に狭まってきた。
振り向くと3人の男性の姿が見え、「何だろう?少し気味が悪いね」と母と話した。

家まであと100m足らずのところで、男性3人は足早に私と母の前に回り込み、突然口をふさがれ、手足を縛られ、南京袋を被せられて運ばれた。
少しすると川の音が聞こえた。現場では男性と女性が日本語で何かを話していた。
女性の日本語は少し変だと感じた。
そのまま小さな船に乗せられ、沖まで連れて行かれ、そのあと大きな船に乗せられた。
南京袋は外されたが暗い船室に押し込められた。
自分の身に起きたことに恐怖し、声を殺して泣くばかり。そのうち泣き疲れて眠っていたらしい。
ひとりの男性が食べ物を持ってきた。数時間経つとまた、同じ男が食べ物を持ってきた。
さらに数時間後、どこかに着いた。外の明かりが差し込み、まぶしくて一瞬目をつぶった。
徐々に明るさに慣れ、見渡すとさびれた港だった。
時計は8月13日、午後5時だった。

日本語を話す女性に「ここはどこか」と聞いたら「北朝鮮」・・当時は初めて聞く国名だった。
船を降りると大きな車が停まっていた。
工作員と思える男性が「これに乗って駅に行き、列車で平壌へ向かう」
「母はどこにいますか?」と聞くと「お母さんは日本で元気に暮らしている」
かなり威圧感があり、それ以上、母のことは聞けなかった。

途中で1泊し平壌に着いたのは、8月15日早朝だった。
招待所まで連れて行かれ、日本語を話すおばさんと生活した。
この女性はのちに国際指名手配されたキム・ヨンス。
拉致実行犯と一緒に暮らしていたのだから、今考えてもおかしな環境だった。

おばさん(キム・ヨンス)は日本語すべてを理解していないし、私も北朝鮮の言葉はわからないので、あまり細かい意思疎通ができなかった。
見るもの・聞くことすべて理解不能で、これからどうなるかという不安と孤独感で、気が狂いそうだった。

平壌に来て数日後、組織の幹部がきて「今日から別の招待所に移る」と言われた。

招待所には先にひとりの少女がいて、笑顔で迎えてくれた。それが横田めぐみさんだった。
めぐみさんは妹と同じくらいの年で、すぐに仲良くなった。
えくぼの可愛い少女で、あのときの笑顔は今も忘れられない。

めぐみさんは、私といるときはいつも笑顔だった。
一緒にいた8か月の生活は大変ではあったが、めぐみさんのおかげで嫌なことを考える時間がなくなった。

二人っきりの時、あるいは皆が寝静まったあと、小声で日本語で話をした。
家族のこと、友達のこと、学校のこと・・・
外に出るときは、二人でこっそり日本の歌を歌った。
指導員に見つかれば大目玉だが、二人とも日本が恋しかった。
毎日、どうしたら日本に帰れるだろう?と考えていた。
結局、帰国できるまで24年かかった。

皆さんは北朝鮮にどんなイメージを抱いていますか?
極悪非道な国?冷血な人種?

たしかに拉致を指導・実行した人達は犯罪者だと思う。
でもそれ以外は普通の人だった。
ただし特別地区に暮らしていた人達なので、一般の人達のことはわからない。
指導員と呼ばれる監視役は皆いい人だった。

北朝鮮の生活水準は低く、物資は常に不足していた。
一部の特権階級の犠牲になって、それ以外の人達はなんとか命をつなぐ状況。

娘たちのエピソードをご紹介したい。
彼女たちの運動会には誰も来ない。
なぜなら自分たち夫婦は隔離され、娘たちの学校に行くことができないからだ。
他の子たちは家族と一緒にお昼を食べる。
誰も家族が来ない娘たちがポツンとしていると、友達の家族が呼び寄せてくれて、食べ物もわけてくれた。
自分達だって決して裕福ではないのに、親御さんは「好きなだけ食べなさい」と、娘たちに食事をごちそうしてくれた。
組織と無関係な人達はごく普通の人達。このことも知っていただきたい。

話を戻すと、拉致されたあと結婚し、新婚当初は別地区にある一軒家の招待所にいた。
娘が生まれて1か月経つと、亡命した米兵達が住む特別区のアパートに移された。

蓮池さんご夫妻がいた招待所は私達がいたところと異なっている。
同じ拉致被害者であっても、アジア系の見た目が同じ人達と、外国人が暮らす地域は別になっていた。

2年後には次女が生まれ、アパートでは他にも子ども達がいる家族が住んでいた。
アパート専門の保育園(保育士ひとり配置)に2年間通い、言葉など教えられていた。

生活は苦しかったが ひとりでなくなったことが嬉しかった。

自己流の子育てだったが、アパートの先輩方のアドバイスのおかげで、子供達は大病せずにすくすく成長した。

いちばん親切にしてくれたのは、同じアパートのタイ人女性・アノーチャさんだった。
彼女も拉致された人で、すでにご主人が亡くなっていた。
娘たちが慕っていて、私にとっても姉、母のような人だった。

長女が小学校に上がる前に引っ越ししたので、分かれ分かれになったが、彼女も拉致被害者のひとりであり、救出を待っていると思う。

子育て中に残念だったことは 子どもの学校行事に参加できなかったこと。
隔離されていたから、学校に行くことが許されず、遠くから見ることもできなかった。
そんな状況でも子ども達は元気に育ってくれたことが嬉しかった。

つらかったのは冬。北朝鮮の冬は、痛いくらいの寒さで肌につきささるようだった。
柏崎も大雪に見舞われるだろうが、氷点下20~30℃になる北朝鮮の比ではない。
帰国してから今の生活が当たり前となった。北の生活はもう嫌。

北朝鮮は発電技術が未発達で、しばしば重油不足となり停電した。
お風呂に入れないため、体をお湯でしぼった布で拭くが、すぐに冷えてしまう。
夜は寒くて眠れず、家中の服を着込んで、家族がかたまって眠った。

スイッチひとつで冷暖房使い放題の日本は、北朝鮮の住民からみれば天国だ。
拉致された当時の日本と比べても、北朝鮮の文化レベルは低い。
それでも我が家には古い家電製品はあり、一般住民よりは恵まれていた。
ただし停電により家電はたびたび使えなくなった。

家電はいつ頃の製造かわからない古い製品で、維持費もかかった。
洗濯物は雨水をためて手洗いしていた。

おそらく今も北朝鮮国民の文化レベルは変わらない。
何年も続く経済制裁により、一般の人たちの生活困窮はピークに達していると思う。
食糧難もひどすぎて全国民を救えない。
北朝鮮に住んでいたからこそわかるが、彼らの生活は皆さんが想像する以上に過酷だ。
特権階級のために、いつも一般の人々が犠牲になっている。

北朝鮮では買い物は週1回許され、指導員に頼み車を迎えに寄こしてもらった。
どうしても足りないものがある時はこっそり買い物に行くしかないが、指導員に見つかると怒られる。

闇市での失敗談がある。
「中身がわからないものは買ってはならない」と思いつつ卵を買ったことがある。
ひとつ割ったらヒヨコになりかけ、もうひとつ割るとドロドロに腐っていた。
半分以上はダメだったが、それでも残った卵を使い誕生日のケーキを焼くことできた。
買い物ひとつとっても日本は幸せであることを、再確認していただきたい。

北朝鮮では最低限の生活費が毎月決まった日に配給される。

必要経費を振り分け、どうしても欲しいものは貯金して買うしかないが、突発的な家電故障などがあり、家計は厳しかった。

食料品はほぼ北朝鮮製、たまに中国製だった。日本製は安全だがすべて高く、とても手が出せなかった。

お金が足りないと闇市に行き、トウモロコシの粉をこねてうどん、パスタ代用品にした。
主食として白い米を目にすることがない。
一家に支給される米の量も決まっていたが、常に石や虫が混ざっている「灰色の米」だった。

インドネシアで家族と再会したとき、日本からお米を持って行き、炊いてもらった。
「お米って白いんだね」「変な匂いがしないんだね」「こんなおいしいご飯食べたのは初めて」と娘達は喜んでいた。

拉致されてから24年間、よく無事に生き延びたと自分をほめたい。
要因は大きな病気をしなかったことだと思う。

北朝鮮では医療技術が遅れ、さらに医療設備はおそまつな状態。
健康診断もないので、症状出てから病院に行っても間に合わないことが多い。
日本でいう診療所レベルの「病院」しかない。
診断を間違うので、命に関わる病気でも治療してもらえない。

同じアパートの人は病院で風邪と診断されたが、実は癌だった。
やはり拉致された人だった。
その人にだって夢があり、やりたいこともあったはず。なんて理不尽な人生だろう?

拉致された人たちの中には、命にかかわる病気で亡くなった人がいるかもしれない。
あまりにも時間が経ちすぎている。
もし重篤な病状でも、医療では助けられない。
病気で亡くなってしまっていた、という拉致被害者をひとりも出したくない。
1分でも1秒でも早く解決してほしい。

私個人の力では無理だが、母を含む被害者全員が帰れるよう、講演、署名など行ってきた。

母がどうなったかいまだ解明されていない。
北朝鮮は「未入国」としている。
母も今年は米寿で88歳、日本にいれば元気にしていただろうが、北朝鮮にいればどうなっているかわからない。

母の話は手記にも書いたが、いつも同じ姿が目に浮かぶ。
母は朝早くから夜遅くまで、身を粉にして働いていた。
朝の仕事を終えると私たちに朝食を食べさせ、自分も食べてから工場へ出勤。
帰宅すると夕食をつくり、片付けのあと、ザルをつくる内職をするのが母の毎日の生活パターンだった。

当時、私の家は貧しく、母が朝から晩まで働いても生活は楽でなかった。
母は愚痴をこぼさず、いつも明るくふるまい、子ども達が少々悪いことをしても怒らない。
自分よりも子供のことをいちばんに考える、優しい母だった。

私の遠足では、いろいろなおかずの入ったお弁当を持たせてくれた。
でも母の弁当はごはんと塩辛い漬物だけ。

「どうして母ちゃんは漬物だけなの?」と聞くと、「漬物が塩辛いから腹いっぱいご飯が食べられるんだ」
・・今なら母の気持ちがわかる。

友達の着ていた新しいセーターがうらやましくて、家のタンスからお金持ち出しセーターを買ってしまった。
家族といえど許されない行為のはずだが、気付いても母は怒らなかった。

「母ちゃんが買ってやれなくて、かんにん(ごめん)な」・・頭ごなしに怒られるよりも心に突き刺さった。
本当に優しい母だった。

盆踊りの時、友達はみんな浴衣だった。うらやましい、仲間外れになりたくないという気持ちから

「私も浴衣で行きたい。祭りまでに浴衣を縫って」と駄々をこねた。

母は和裁ができたからだが、文句も言わず浴衣を夜なべで縫ってくれた。

いま思い出しても無理ばかりさせた。反省と感謝しかない。
あの頃の母はどんな気持ちだったのだろうか。
働きづくめで、おしゃれもできず、数えるくらいしか出かけなかった。

母の写真は両手の指で数えられるくらいしか残っていない。
母がいなくなった年齢である46歳を自分はとうに越した。
母のわがまま受け止めたい。愚痴をこぼして本当の気持ちを話してほしい。

帰ってきたら、やりたいことをさせたい。
おしゃれをして旅行へ出かけ、笑い声のたえない生活をしてほしい。

そんな未来を希望するが、母の年齢を考えるともうそんなに待てない。

帰国してから、国家間での難しいことはわからないが、ニュースは常に意識している。
北朝鮮はミサイル発射実験を繰り返し、何がしたいかわからない。

政府も手をこまねいているわけではないと思うが、日朝協議首脳会談の道筋をつくり、粘り強く交渉続けてほしい。

毎年「今年こそ」と思いながら、ここまで来てしまった。
40年は長すぎる。これ以上時間はかけられない。

北朝鮮の一般的な生活状況は、さらに悪くなっている。
現地に暮らす日本人はこう思っていることだろう。
「いつ私を助けてくれますか?誰でもいい、私をふるさとへ帰してください」

世界でたったひとりの母も、現在どうなっているかわからない。
丈夫だけが取り得の人だから、日本にいれば今も元気に畑仕事をしていたに違いない。
しかし病気になればどうなるか?
足腰が弱り、自分のことできなくなっているのでは?

北朝鮮には日本のように介護施設もない。自分と家族と隣近所の人だけが頼り。
元気でいることを願うしかないが、残された時間が少ない。

時間との勝負は家族会の親世代も同じ。
皆さんはいつ倒れてもおかしくないのに、公の場に姿を見せ、満身創痍で活動を続けられている。
1日も早く、ひとりでも多くの日本人拉致人被害者取り戻したい。

署名1筆の積み重ねが、奪われた人たちを取り戻すことの助けとなる。
今日の話を一部でもいいから、知人・友人へ伝えていただきたい。

まだ解決しない拉致問題に奔走する家族と、過酷な環境で救出の日を待つ拉致被害者の
「お帰り」「ただいま」を一日も早く聞けるように。

___________

質疑応答

(市内教員)
拉致問題を知らない若い世代が増えている。
教員である私に何ができるかといえば、子ども達と学び、考えていくこと。
「北朝鮮の人々は普通の人達」
今日のお話を聞いて、拉致問題を伝えるとき、ヘイトスピーチになってはいけないとあらためて感じた。
では逆に何を伝えるべき?大切にすることは?

(曽我さん)
ある学校で小学4~5年生くらいの子ども達から質問された。
「拉致って何ですか?」
ひとことで言えば「人さらい」だが、子ども達に「拉致とは何か」というところから入っていくべきという想いになった。
北朝鮮の一般の人達は、拉致が起こっていることさえ知らない、普通の人達だと思う。

なぜ子ども達に拉致の話を言い続けているか?
今は日本と北朝鮮は仲良くないが、拉致問題やいろんなことが解決した暁には、子ども達もきっと仲良くなれるに違いない。

私自身は嘘はつきたくない。
皆さんは北挑戦に良いイメージ持っていないだろうが、そうではない、良い人もいるということを伝えたい。
拉致されたために自分の人生が狂ってしまい、仲の良い家族と長い間、離れ離れになることの苦しさ、痛みを教えてほしい。
だからまずは今ある家族を大切にしてほしい。

 

(市内会社員)
曽我さんのお話を伺い、「生きる姿勢」に感銘を受けた。
突然日常を奪われ、お母さんとも離れ離れになり、人生を狂わされてしまいながら、どんな心境で生きてこられた?
他の苦しい想いを抱えて生きている人達へのアドバイスとして、ひとことお願いしたい。

(曽我さん)
私のような者がアドバイスする立場にはないと思う。
拉致されて北朝鮮にいたころ、自分自身これからどうなっていくのだろう?もう日本には帰れないのだろうか?とずっと考えていた。
生きる勇気がなくなったことも正直何度もあった。
ある程度のことは時間が解決してくれる。

家族が出来てからは「どうせ日本に帰れないなら、ここで出来た家族をもっともっと大切にして愛していかなければならない」と考え方を切りかえた。
家族を守っていこうと考えたとき、自分自身が強くなった。
家族とどんなことがあっても一緒にいたい。
日本の父や妹に何もしてあげられない分、自分の家族にはできる限りのことをしていこうと思うようになった。

 

(市内某氏)

私は今後も拉致問題は解決できないと思っている。
その大元は日中戦争後の処理、戦後補償きちんとやらなかったからではないか。
日本は北朝鮮から70万~200万人拉致したのに、それを無視している。
西ドイツのブラント首相はナチスドイツの罪を土下座で謝った。
十数兆円の補償金を日本は支払い・・

(桜井市長より「ここは質問の場です。質問をしてください!」と言われ・・)

安部首相に謝罪させるにはどうすればいいか?

(曽我さん)
大変難しい質問で回答も難しい。
私が安部首相にどうこう言うことは個人的に難しい。
とにかく1日も早く拉致被害者が帰国できることを願って活動を続けたい。

 

<蓮池薫さん、由紀子さん>

皆さんにお話ししたいのは、私の場合は家族全員帰ってきた。
曽我さんは、お母さんがまだ北朝鮮に残っているにも関わらず、つらい思いを推して貴重なお話をしてくださった。
そのことに敬意を表するとともに、「お母さん取り戻したい」との決意と覚悟をあらためて強く感じた。

曽我さんと私の拉致のケースは似ている。おそらく同じ部署による作戦だったと思う。
しかしそれぞれの結婚を機に担当部署分かれたと考えられる。

17名認定拉致被害者がいるが、うち4名は北朝鮮は未入国としている。
曽我さんは「お母さんは日本に帰した」と言われたが、私たち夫婦も結婚前はそれぞれ「相手は日本に帰した」と言われていた。

間違いなくミヨシさんは北挑戦にいらっしゃる。
ミヨシさんは当時46歳。
拉致の目的は色々で、日本教育に使いたいという意図もあった。我々も協力させられた。
46歳であれば、社会経験もあり、北朝鮮にとって(利用)価値がある。
必ずミヨシさんは北朝鮮にいるはずだ。
拉致認定者のおひとり田中さんも、未入国と言われたが、あとから存在を認めている。
今なお北朝鮮にいらっしゃると確信している。

もうひとつ申し上げたいのは、曽我さんが北朝鮮の「優しい人たち」についてお話ししたこと。
拉致を行ったのはごく一部の支配層であり、勝手な目的により、手段や方法を選ばない。

北朝鮮の一般の人々とはいずれは仲良くなってほしい。

北朝鮮の上層部には反省し、拉致被害者を返してもらいたい。
日本も過去の清算は必要で、2002年の平壌宣言で戦後補償を行うと約束しながら不履行のまま。
互いの懸案問題を解消することが必要。ヘイトスピーチとは関係ない。

拉致されてからの24年間、最初こそ帰してほしいと思いながら、次第に腹をくくって家族を守ってここで生きようと覚悟した。
私たちは幸いにも帰ることができたが、残された拉致被害者たちも、その様子を見ているはず。
残された被害者はどれだけ不安でつらい想いをしているだろうか?
限界を超える状態の中で17年間待たされている。
今後も拉致問題に関心を持っていただき、帰れない人たちの救出のためにご協力いただきたい。

 

<桜井市長より>

今日は曽我ひとみさんのお話しじっくりお聞きした。
世の中には色々な考えの方々がいて、ついうっかり「あなたの気持ちや考えはよくわかります」と言ってしまう。
けれど本当は人の心や考えを理解することは基本的にはできないのではないか。

私たちは今日、曽我さんの話を伺い、曽我さんのお母さん=ミヨシさんへの想いを想像するしかない。
蓮池薫さん、由紀子さんのお考え・想い、ずっと待っていらしたご両親の想いも想像するしかない。

だからこそ曽我さんのお母さんのこと、お弁当の話、セーターの話など、より多くの方々、特に若い人たちにお話しいただきたい。
そしてより多くの方々が曽我さんの想いを共有、想像できるようお願いしたい。

________________

終了後は会場外で署名活動が行われました。

私たちにできること(柏崎市より)

1、多くの方々と思いを共有する

拉致被害者の思い、帰国を待つご家族の思いを共有しましょう。
今日のお話で感じたことを、ご家族、ご友人にもお伝えいただき、多くの方とこの思いを共有しましょう。

 

2、安部首相にメール・はがきを送る

首相官邸のホームページ「ご意見・ご感想」からご意見を送ることができます。
はがきの場合
〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 安部晋三 殿

 

3、ブルーリボン着用

ブルーリボンは「取り戻す」ためのシンボルです。
拉致被害者の救出を求める国民運動は、ブルーリボンと青色を運動のシンボルにしています。
青色は、被害者の祖国日本と北朝鮮を隔てる「日本海の青」を、また被害者とご家族を唯一結んでいる「青い空」をイメージしています。

ブルーリボンお問い合わせ先は、柏崎市人権啓発・男女共同参画室(0257-20-7605)

 

一日も早い解決に向けて、より多くの方々と共有すべく、ここに記した次第です。

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