はじめての勉強会 「被災地における首長とは」
平成20年5月8日(木) 某所にて記念すべき?第1回目の勉強会を行いました。
ゲストは衆議院議員・長島忠美氏。以下はその時の内容です。
【趣旨】
現在の柏崎は様々な問題を抱え、市民は希望を失いつつある。この状況を打破し、柏崎を少しでも良い方向へ導くには、強力なリーダーが必要である。今秋の市長選挙に向け、現時点では2名の候補者が出ているが、どちらが適任なのか?
長島議員は被災地の首長としてリーダーシップを発揮し、現在は国政の場で震災復興に取り組む偉大な政治家である。その長島議員の目に現在の柏崎市政はどのように映るのか、また震災復興を成すためには何が必要なのかをお話しいただき、柏崎の行く末を考える上での手がかりとしたい。
【長島議員より】
被災した地域の首長にいちばん必要なのは、最前線に立って指揮していく覚悟と実行力である。また首長自身の姿勢・生き様も、力量とともに重要になる。中越地震で被災した山古志は、いま復興を成し遂げつつある。山古志ができたことが柏崎にできないはずはない。柏崎も必ず復興することはできる。ただしそれには首長の資質が影響する。
中越沖地震が発生したとき自分は東京にいたが、連絡を受けてすぐに車で現地に向かった。あらゆる交通手段の中で、確実に現地に向かうにはそれが最善の方法だった。だが途中で渋滞し、また県庁で政調会長を迎えてからの現地入りとなったので、柏崎に到着したのは深夜12時頃だった。
地震発生後、いちばん気になったのは被災した住民達のことだった。自分が村長だったとき心に誓ったのは「村民にがまんをさせてはならない」ということだった。がまんが続けば心がめげてしまい、復興や再建が難しくなってしまう。だが、柏崎の会田市長は記者会見で「住民にはがまんしてもらう」という旨の発言した為、違和感を覚えた。
現地入りして驚いたのは、市役所に職員が大勢いたことだった。山古志では役場職員はほとんど出払い、村民のところをまわった。また自衛官が20名ほど市役所内に待機していたのも、信じられないことだった。現場の状況把握が遅れ、市内のどこに自衛隊を配置するのがベストかわからなかったのではないか。ボランティアにしても大勢訪れたのにも関わらず、行政との連携がうまくいかないのが見てとれた。またボランティアセンターを早々に解散してしまったことにも疑問を感じている。自衛隊やボランティアが全力を尽くしていた分、行政との温度差が目立った。 山古志の村長だったとき、自分は役場の職員にこう言っていた。「行政は住民の願いを100%かなえることはできない。だから100%住民に向き合いなさい」と。だから職員は常に村民のところに行き、声を聞くようになっていた。
山古志では200戸の家を新たに建てた。このとき木造の一軒家を元の場所に建てるようにした。200世帯のほとんどが高齢者であり、自分の住みなれた土地に帰ることを望んでいた。ただし独居の高齢者の中には長屋式の家の方がよいという人もいたので、その場合は要望通りにした。仮設でもできるだけ地域ごとに配置し、慣れ親しんだ者同士が隣近所で生活していけるようにした。元の生活に戻るということは地域コミュニティに帰ることでもある。被災地の首長には、そういう考え方のできる人がのぞましい。
村長時代は毎日が忙しかった。早急な決断が必要になることばかりであり、専決処分も多かったが、議会には「あくまで住民の為の決断だ」ということで納得してもらった。また仮設ではノートに住民の声を記入してもらい、必ずその日のうちに返事を書いた。合間に何度も東京へ行き陳情にまわった。財務省にも足繁く通った。
マスコミを味方につけることも重要だった。自分が山古志村長だった時、マスコミに対しては「本当のことを話すから、ありのままの姿を報道し続けてください」とお願いした。結果、山古志の様子は常に放映され、全国で注目され続けた。インタビューでもすべてを話したが、発表のタイミングは選んだ。「住民が混乱するから、すぐ公開することはやめて欲しい」と頼み、その通りにしてもらった。マスコミは冷静に首長を審査している。
村民には厳しいことも言った。「被災したからといって、過剰に甘えてはいけない。自分達でできることは極力自力で行うこと」「被災の程度に差があっても互いに助け合うこと」「避難所はいつも清潔にしておくこと。特にトイレ掃除を怠らないこと」等はよく話した。また当初は「頑張れ」と言っていたが、あるときノートに「何の目標を示さず何が頑張れだ、バカ村長」と書かれていたのを見て、その言葉を使うのをやめた。希望を与えないまま「頑張れ」と言うことは無責任。
被災地の首長がやるべきことは、国や県とのパイプを持つことである。そうでなければ被災地の状況を知ってもらうことは難しく、継続して支援を引き出すことはできない。自分が首長だった時は県、国に通って窮状を訴えた。その中で信頼関係も構築した。自分が首長でなくなった今も、山古志は国や県を離していない。会田市長は震災後、自分のところに来たのはたった4回。能登半島地震で被災した輪島市市長の方が頻繁に通ってくる。会田市長は国とのラインを必要としているのだろうか?もっとも近藤議員とは親密にしているようだが。
国も県も柏崎を心配している。震災だけでなく財政難の問題もあり、補助金や交付金なしでやっていける状態ではない。このままでは「第二の夕張」になることも避けられないと思われている。だが支援したいと思っても窮状が伝わってこないので、手をこまねいているのが現状である。窮状を訴えるためには首長自らが市民のもとに足を運び、現状を把握しなければ説得力は生まれない。行政も住民のもとに通い信頼関係を築かなければ、本当の望みはわからない。柏崎の市長にも行政にもそういう姿勢が欠けているのではないかと感じる。
【意見交換】
市民①)
震災の査定について。自分の家は最初「一部損壊」と言われたが、修理の為に業者が入ったとき、「この前修理した家は半壊だったが、それよりもひどい。もう一度見てもらった方がいい」と言われた。市役所に掛け合ったが「一度でも業者が手を入れたら審査の対象にはならない」の一点張りで、結局は再査定してもらえなかった。
長島議員①)
査定の判断は市町村長の権限であるから、自分もかなりの家に対して重度の判定を出すよう配慮した。また再調査も何度も行った。基本的に住めないのであれば「全壊」にした。修理費は補助金から出すことも考えれば、少しでも住民にとって有利である方がいい。柏崎は調査に期限をつけたが、山古志では冬季は一旦中止し、4月に再開した。雪害による損壊も加わり、より重い判定になったはず。住民のことをいちばんに考え、そのように判断した。
市民②)
震災後いろいろな事業がスタートしたばかりなので、市長が変わらない方がいいという声もある。会田市長が考え方をあらためてくれれば、再選されてもよいのではないか?
長島議員②)
中越地震で被災した地域の首長はすべて変わっているが特に問題は無い。大事なのは行政の意識を統一しておくことで、あとは首長の資質次第である。
市民③)
市長は市民の声を聞き、要望をかなえればいいというものでもないと思う。ひとりひとりの異なる意見をどうまとめていくのか。まさか多数決ではあるまい。たとえ市民の要望と違っても納得させ、正しい方向へ導くことも必要ではないか。
長島議員③)
首長は自分自身の考えとそれを実行していく力量を持たなければならない。自分の考えも無いまま他人の意見を聞いても混乱するだけである。
市民④)
市長は「優秀な人」がよいのだろうか?
長島議員④)
「優秀な」市長は問題の無い平常な状態には向いているかもしれないが、困難な状況には向かない。また優秀であるが故に先に結論を出してしまう傾向にある(=あきらめが早い)。だが首長は最後まであきらめてはいけない。どんな法令も裏から読めば落としどころが見つかるのだから、たいていのことは実現できる。
市民⑤)
県知事との関係が冷え込んでいるのが心配。復興支援の話し合いの場に同席したことがあるが、知事は刈羽村の品田村長とばかり話し会田市長はほとんど無視されていた。また会田市長の発言を知事が途中で遮る場面も見られた。
長島議員⑤)
泉田知事は柏崎のことは気にかけている。支援についても「最後までとりこぼしがないように」との指示を出している。だが会田市長との間に信頼関係が築かれていないことはマイナスである。会田市長は積極的に働きかけをしてこなかったため、国や県には相手にされていないのが実情。つまりパイプラインが無いに等しい。
長島議員⑥)
市民と市長の間にホットラインはあるのか?仮設住宅では住民が精神的に追い詰められやすい。山古志でも数回自殺未遂があった。自分の携帯電話番号は村民に教え、行き詰ったときは必ず相談するよう声がけをしていた。それだけでも住民は「守られている」という安心感を持つ。また市民は困ったときに誰に相談するのか?本来なら行政が仮設をまわり、状況を常に把握した方がよい。
市民⑥)
ホットラインとして一応「こころの相談室」を厚生病院内に設置しているが、あまり機能していないようだ。また仮設には市が委託した相談員がまわっているが、住民との間に信頼関係を築くには時間がかかる。行政は相談しても他にまわされることが多く頼りにならない。
長島議員⑥)
支援室は市長を中心にし、相談窓口もできれば一本化することがのぞましい。相談員も市外の人よりは行政の方が細かい事情が通じやすい。
市民⑦)
桜井候補についてどう思うか?
島議員⑦)
前回の市長選から今まで何をしてきたのか見えてこない。自分が国政の場に出てから若い議員と関わることが多いが、大きく分けてふたつのタイプがある。前者はやりたいこと=目的があって政治家になったタイプ、後者は「政治家になること」を目的とするタイプ。前者はぶれないが後者は多少のことですぐにぶれる。思うに桜井さんは後者に近い。「柏崎をどうしたいのか」という意識が見えなければ人はついてこない。
市民⑧)
柏崎市では義援金を市職員の残業代にあてたという噂がある。
長島議員⑧)
義援金は被災者のために使われるべきものなので、本当であれば問題。また自宅の損壊に応じて配分される金額に大差があるのもおかしい。程度に差はあっても被災によるダメージは一緒なのだから、被災者への配当金はある程度一律であるべき。 義援金自体うまくアピールすれば集まるはずなのだが、柏崎市は早々に「支援お断り」を表明したため、あまり集まらなかった。
市民⑨)
食糧や物資の配分も充分でなかった。中心部だけは豊富だったらしいが、末端までは行き届いていなかった。避難所に取りに来るよう指示があったが、避難所まで行かれない人に対してはフォローがほとんどなかった。
長島議員⑨)
被災地ではモラルハザードを起こしやすい。食糧や水が不足すればますますその傾向は強くなる。また本当に大変な状況に置かれている人は避難所にすら行けないことが多いので、そうした人達を把握することが必要。行政による配分が難しければボランティアを上手に活用すればよかった。
市民⑩)
中越沖地震という名称が中越地震と似ている為、まぎらわしい。震災直後は間違って中越地震に義援金を振り込んでしまった人がいたそうだ。柏崎という地名を含む名称にすればよかったのに、原発を連想させるからダメだと会田市長が主張し、結局この名称になったと聞いた。
長島議員⑩)
県の中越地震用義援金口座は現在閉められたはずだが、当初はそういう間違いもあったようだ。確かにネーミング段階で問題があったと思う。世間から忘れられないような名称であることは重要である。柏崎という地名を入れた方がよかった。中越地震は中越地区の首長が協議して決まった名称だが、世間では「山古志の地震」として認知されている。それくらいPRしてきた。柏崎はまだ復興を果たしていないにも関わらず、すでに世間から忘れられようとしている。明らかにPR不足である。
市民⑪)
自分の家の前にある道路は市道であるため、補修は市の管轄だと言われたが、ずっと放置されていた。担当課に電話しても返事がなく、市長応接室まで行ってその話をしたら、「そんな話は初耳だ」と言われた。だが帰宅後その日のうちに担当課から工事日の連絡が届いた。市長の決済が必要なのだから初耳のはずはない。おそらく担当課の怠慢だと思うが、なぜ市長がそんな言い方をしたのかわからない。市長の手紙も返事が遅い。おそらく各課に返事を書かせているのだろう。市長からは明確な答えも意思表示もない。自分の考えを持っているのか不信に思う。
長島議員⑪)
市長と市役所職員の関係がうまく機能していないのではないか。市長→職員へのトップダウンではなく、担当課の考えを市長が代読しているような状態なのでは?今の柏崎市行政を見ていると、外部からの意見を受け付けない傾向にあると感じる。また早期に市役所を平常業務に戻したようだが、そんなに余裕があるのかと思う。完全に復興したわけでないのに外部からは「もう大丈夫なのだろう」と見られ、支援にも影響する。
【最後に】
震災の経験は自分の政治家としてのあり方を決定付けた。また震災を通して山古志という故郷の大切さをあらためて感じた。震災後はずっと公私のうち「私」を忘れて働いた。仮設住宅を出たのはいちばん最後だった。それでも家族との絆は深まり、村の外に出ていた息子は山古志に帰って家庭を築いている。柏崎でも市外に住んでいたが地震を機に柏崎へ帰ってきた人もいると聞く。震災により痛手を負ったものの、故郷の大切さに気付く機会にはなったのでは?これからの柏崎は原発との関係と震災復興が大きな課題となる。柏崎にはすでに頑張っている企業がある。今あるところを大切にして柏崎の活性化をはかるとよい。同時に国や県とのパイプを強化し支援を引き出す。また外の意識を柏崎に向ける努力をする。そうすれば柏崎は立ち直ることができる。市民の憂いを受け止め、希望を与えられるような市長を選ぶことを期待している。
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長島さんが村長だった時、ずっと大切にしてきたのが「住民と向き合う」こと。常に住民の幸せを守るために何ができるか考えながら行動したからこそ、山古志の復興をかたちにできたのではないかと思います。
非常に学ぶことの多いお話でした。
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